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(一二) 石堂

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 祠堂は内部に仏像や石塔を祀るための石室であって、近くでは、徳山市下上井谷に、明応九年(一五〇〇)の遺品が存在している。
 下松で在銘最古のものは、花岡閼伽井坊境内の石室である。内部の石仏向って右端に慶長十年乙巳(一六〇五)の年号が刻まれている。材質は安山岩で一石を刳り貫き、軸部正面に四角の窓がある。屋根は切妻で、正面妻側にアーンク胎蔵界大日如来の梵字がある。前面には四本、側面には一寸五分置きに十三本の浅い縦線がそれぞれ刻まれる。地上高三尺四寸九分内部に安置される石仏(安山岩)は、阿弥陀如来と地蔵菩薩を一石に薄肉彫りしたものである。

閼伽井坊・石室(在銘中市内最古)


同右内部石仏 慶長十年(一六〇五)

 この祠堂は、昭和五十年頃までは近くの田圃(末武)の土手に在ったという。慶長以来何度か移転されたのであろう。
 市内で二番目に古いのが大字河内江ノ尾の石室である。この附近を通称石堂(イシドウ)と言っている。石室は安山岩で、一石を刳り抜き屋根は切妻である。広い面、軸部に造られた扉は現在存在しない。内部には石仏二体がそれぞれの石に薄肉彫りされ一方には
    常譽宗善居士
    干時
      寛永七庚午年十二月四日
 他の一石に
    〓屋妙春禅定尼
と刻されて造立の目的が浄土宗による菩提供養であることが分かる。いずれも上部がゆるやかで古制を表わし、光背を有しているが、彫はやや未熟である。

石室 河内江ノ尾


同右内部石仏 寛永七年(一六三〇) 彫りは稚拙である。


字江ノ尾 石堂実測図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 石仏の刻まれた寛永七庚午年(一六三〇)十二月四日の年号から、石室も同様の造立と考えられる。閼伽井坊の石室は、慶長十年(一六〇五)の造立であるからこの間二十五年、人間一代の時代差があるが、多くの共通点又差異も認められる。両石室はこの地方に於ける慶長~寛永期の手法を伝える貴重な遺品である。比較するに石工も異なるであろうが、今後充分な比較研究を願いたいものである。
 紀年銘が判読されるものの内三番目に古いのは、村上家(花岡八幡宮・宮司)の石室で通称野村山墓地にある。石質は同様安山岩・切妻式で地上二尺八寸(基礎部は不詳)が認められる。内部に宝篋印塔一基が安置されている。石室の前面右端に浄金大居士天菩提也孝子、同左端に寛永十七年(一六四〇)十一月三日の刻がある。石室内部の塔も同年代であろう。村上家の墓石には、キリーク(弥陀)等の諸尊種子の他塔身下部に蓮弁が刻まれ江戸末の天保年間に至るまで続いている。このことは村上家に限ったことではなく、別当(真言宗・地蔵院)による葬儀を意味するものであって、旧藩時代の神官の葬儀、墓石造立の経緯を伺える史料としても貴重である。他に周囲の墓地内には、旧家のものが多く例えば中村家(万治四年・一六六一)八木家(元禄十一年・一六九八)等大庄屋階級の祠堂があり、又米川瀬戸には内山家の祠堂があるが、年代が判読できないものが多い。

花岡・村上家石室(左側) 寛永十七年(一六四〇)

 一般に江戸初期の石室は軟質の平野石(安山岩)を刳り貫いて造ったため、破損しやすく右の墓地に無縁墓となって多量に放置されているので今後丁寧に調査すれば、寛永期頃のものは相当発見される可能性がある。