手水鉢は、参拝の際手を清めるための用具であるが、国内では京都海住山寺に正嘉二年(一二五八)[戊午]十二月日銘の水船らしきものがある。(『日本石造美術辞典』川勝政太郎著)
山口県下には、中世の年号のある手水鉢は無く、元禄年間以後、紀年銘のある遺品がふえてくる。(『山口県の石造美術』内田伸著)
市内に於ける手水鉢四十五基の内年代の刻まれたものが三十三基ある。その内最古の遺品は、米川神社の元禄十六年(一七〇三)のもので、施主山本次郎衞門と刻まれている。市内に於いても手水鉢の遺品は比較的多く、古い順に数基を挙げると、次の通りである。

荒神社手水鉢(妙見社境内) 安永四年(一七七五)

普門寺手水鉢 天明二年(一七八二)

松尾八幡宮・手水鉢 天明四年(一七八四)

吉原地蔵堂・手水鉢 天明五年(一七八五)

花岡八幡宮・手水鉢 文化元年(一八〇四)

誓数寺・手水鉢 文化四年(一八〇七)

恋ヶ浜降松神社 手水鉢 文化六年(一八〇九)

来巻嶽妙見社 手水鉢 文化七年(一八一〇)
まず、米川神社の手水鉢は次の通りである。

米川神社・手水鉢 元禄十六年(一七〇三)
石質 花崗岩
高 一尺八寸(下部に六寸余の継石あり)
幅 二尺五寸
奥行 一尺五寸五分
深さ 五寸
縁幅 三寸~三寸六分
手水鉢は下部に石が継がれているが神社が高所にあり運搬を容易にするためか、あるいは後世鉢を使いやすくするため高くしたものであろう。下の台を含めると六寸余り高くなる。
銘文
右 元禄十六
奉寄進
左 正月吉日
裏面
施主
山本次郎衞門
二番目に古いのが、久保西蓮寺の手水鉢である。

西蓮寺手水鉢 宝暦四年(一七五四)
石質 花崗岩
地上高 一尺七寸三分
幅 二尺五寸二分
奥行 一尺五寸一分
縁幅 三寸一分
深さ 四寸二分
前面 文曰
弥陀心水沫身〓
寄進
願主
貞木善十郎
西蓮寺圓誉代
宝暦四甲戌四月八日
裏面
水〓料米八計
裏面に刻まれた米八斗は、永代の水汲代としてお鉢米八斗を、手木鉢にそえて奉納したことを示すものである。同年夏に寄進した光円寺の手水鉢も同様水料八(鉢)米八斗と刻まれている。灯籠も灯明料を添えて、奉納する慣しがあった。油は枡で量るものでは、最も高額であるから、油代は水汲代の何倍も必要であったと思われるが、そのことについて刻んだものは、市内からは発見されていない。石灯籠や水船の奉納者が、いずれも各時代の有力者であるのはこのためである。
在銘中三番目に古いのが山田光円寺の手水鉢である。三番目と云っても西蓮寺の手水鉢が宝暦四年四月で光円寺の方は同年の夏と刻まれているからつまりほぼ同時の作造である。

光円寺手水鉢 宝暦四年(一七五四)
石質 花崗岩
地上高 一尺八寸五分
幅 二尺九寸
奥行 一尺六寸五分
深さ 四寸六分
縁幅 二寸八分
銘文
寳暦四戌夏
前面 梵盥
光圓七世代
右側
施主 貞木武兵衞
同姓清兵衞
左側
水料
八米八斗
四番目に古いのが降松神社(若宮)の手水鉢である。

降松神社・若宮手水鉢 明和三年(一七六六)
石質 花崗岩
地上高 二尺五寸
台トモ 三尺
幅 四尺
奥行 二尺三寸
縁幅 五寸
銘文
明和三丙戌九月
出合村講中
庄屋
原田善兵衞
当初別当鷲頭寺の入口に在ったが若宮入口の井戸横に移動し、現在では、同社の社務所前に置かれている。庄屋の原田善兵衛は天保八年(一八三七)松の苗十三万三千本を同村に植林して藩に献納しているが、その山林の所在地は現在明らかでない。
山口県下には、中世の年号のある手水鉢は無く、元禄年間以後、紀年銘のある遺品がふえてくる。(『山口県の石造美術』内田伸著)
市内に於ける手水鉢四十五基の内年代の刻まれたものが三十三基ある。その内最古の遺品は、米川神社の元禄十六年(一七〇三)のもので、施主山本次郎衞門と刻まれている。市内に於いても手水鉢の遺品は比較的多く、古い順に数基を挙げると、次の通りである。
手水鉢造立年代 | 西暦 | 所在地 |
元禄十六年 | (一七〇三) | 米川神社 |
宝暦四年 | (一七五四) | 西蓮寺(久保市) |
宝暦四年 | (一七五四) | 光円寺(山田) |
明和三年 | (一七六六) | 降松神社(若宮) |
安永四年 | (一七七五) | 荒神社(現・妙見社境内) |
天明二年 | (一七八二) | 普門寺(本町) |
天明四年 | (一七八四) | 松尾八幡宮(宮本) |
天明五年 | (一七八五) | 地蔵堂(河内吉原) |
文化元年 | (一八〇四) | 花岡八幡宮 |
文化四年 | (一八〇七) | 誓教寺(切山) |
文化四年 | (一八〇七) | 深浦八幡宮 |
文化六年 | (一八〇九) | 恋ヶ浜降松神社 |
文化七年 | (一八一〇) | 獄妙見社(来巻) |
文化十年 | (一八一三) | 日天寺(高橋) |
文化十一年 | (一八一四) | 由加社(久保) |
文政二年 | (一八一九) | 笠戸神社 |
文政九年 | (一八二六) | 切山八幡宮 |
文政十年 | (一八二七) | 下村琴平社 |
文政十一年 | (一八二八) | 貴布袮社(西市) |
文政十一年 | (一八二八) | 正福寺(西市) |
文政十一年 | (一八二八) | 西念寺(八口) |
文政十二年 | (一八二九) | 松尾八幡宮(宮本) |

荒神社手水鉢(妙見社境内) 安永四年(一七七五)

普門寺手水鉢 天明二年(一七八二)

松尾八幡宮・手水鉢 天明四年(一七八四)

吉原地蔵堂・手水鉢 天明五年(一七八五)

花岡八幡宮・手水鉢 文化元年(一八〇四)

誓数寺・手水鉢 文化四年(一八〇七)

恋ヶ浜降松神社 手水鉢 文化六年(一八〇九)

来巻嶽妙見社 手水鉢 文化七年(一八一〇)
まず、米川神社の手水鉢は次の通りである。

米川神社・手水鉢 元禄十六年(一七〇三)
石質 花崗岩
高 一尺八寸(下部に六寸余の継石あり)
幅 二尺五寸
奥行 一尺五寸五分
深さ 五寸
縁幅 三寸~三寸六分
手水鉢は下部に石が継がれているが神社が高所にあり運搬を容易にするためか、あるいは後世鉢を使いやすくするため高くしたものであろう。下の台を含めると六寸余り高くなる。
銘文
右 元禄十六
奉寄進
左 正月吉日
裏面
施主
山本次郎衞門
二番目に古いのが、久保西蓮寺の手水鉢である。

西蓮寺手水鉢 宝暦四年(一七五四)
石質 花崗岩
地上高 一尺七寸三分
幅 二尺五寸二分
奥行 一尺五寸一分
縁幅 三寸一分
深さ 四寸二分
前面 文曰
弥陀心水沫身〓
寄進
願主
貞木善十郎
西蓮寺圓誉代
宝暦四甲戌四月八日
裏面
水〓料米八計
裏面に刻まれた米八斗は、永代の水汲代としてお鉢米八斗を、手木鉢にそえて奉納したことを示すものである。同年夏に寄進した光円寺の手水鉢も同様水料八(鉢)米八斗と刻まれている。灯籠も灯明料を添えて、奉納する慣しがあった。油は枡で量るものでは、最も高額であるから、油代は水汲代の何倍も必要であったと思われるが、そのことについて刻んだものは、市内からは発見されていない。石灯籠や水船の奉納者が、いずれも各時代の有力者であるのはこのためである。
在銘中三番目に古いのが山田光円寺の手水鉢である。三番目と云っても西蓮寺の手水鉢が宝暦四年四月で光円寺の方は同年の夏と刻まれているからつまりほぼ同時の作造である。

光円寺手水鉢 宝暦四年(一七五四)
石質 花崗岩
地上高 一尺八寸五分
幅 二尺九寸
奥行 一尺六寸五分
深さ 四寸六分
縁幅 二寸八分
銘文
寳暦四戌夏
前面 梵盥
光圓七世代
右側
施主 貞木武兵衞
同姓清兵衞
左側
水料
八米八斗
四番目に古いのが降松神社(若宮)の手水鉢である。

降松神社・若宮手水鉢 明和三年(一七六六)
石質 花崗岩
地上高 二尺五寸
台トモ 三尺
幅 四尺
奥行 二尺三寸
縁幅 五寸
銘文
明和三丙戌九月
出合村講中
庄屋
原田善兵衞
当初別当鷲頭寺の入口に在ったが若宮入口の井戸横に移動し、現在では、同社の社務所前に置かれている。庄屋の原田善兵衛は天保八年(一八三七)松の苗十三万三千本を同村に植林して藩に献納しているが、その山林の所在地は現在明らかでない。