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(一五) 神輿台

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 普通お休台と称していて、祭礼の際神輿を置く石の台である。市内に於いては、江戸時代のものが九ケ所に存在するが、その内五ケ所には三基がそろい、他の四ケ所は一基のみである。時代からすれば、末武八幡通りにある安永八年(一七七九)の三基が最も古く、次が生野屋西村の寛政五年(一七九三)の一基である。列挙すれば次の通りである。

花岡八幡宮神輿台 安永八年(一七七九)

神輿台造立年代西暦基数所在地
安永八年(一七七九)三基末武八幡通り
寛政五年(一七九三)一基生野屋西村
慶応二年(一八六六)三基松尾八幡宮(宮本)


花岡八幡宮神輿台 安永八年(一七七九)

生野屋西村神輿台 寛政五年(一七九三)

 花岡八幡宮前方のお休台は次の通りである。
    石質  花崗岩
    地上高 二尺四寸四分
    幅   四尺一寸
    奥行  四尺一寸
  銘文
    安永八歳
   奉獻林亦五郎
    亥九月吉日
 旧河内村には現在お休所が二ケ所あり、この内一九八番地通称宮ケ浴の方は、かつての舞堂跡で弐間に六間の茅ぶき堂が在ったことが『地下上申』寛延二年(一七四九)から明らかであって、現在もこの附近を「マイドウ」と称している。したがって神輿台を設けたのは降松神社になってのことである。
 他方妙見橋手前一六八番地の方は『周防国都濃郡妙見山之略圖』嘉永七年(一八五四)や『絹本淡彩妙見社参詣圖』文化五年(一八〇八)にお休台が描かれているので、相当に古くから存在したことが明確である。ただ現在の神輿台は、明治二十年二月岩本貞一の奉納せるものである。前述のように市内に於いても安永八年(一七七九)以前の休台遺品が存在しないことは、石造りの休台が、比較的新しいことの証しである。