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(一六) 石鳥居

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 石鳥居では、足守八幡神社(岡山市)の康安元年(一三六一)在銘のものがあって有名であるが、県内では、紀年銘の明確なものでは、防府天満宮の石鳥居寛永六年(一六二九)が最も古く、次が柳井市伊保庄の賀茂神社寛永十四年(一六三七)の石鳥居である。
 次に下松市内に存在する石鳥居六十四基の内寛政年間までのものを在銘年号によって順に列挙しよう。

松尾八幡宮 鳥居 宝永五年(一七〇八)

石鳥居造立年代西暦所在地
延宝七年(一六七九)降松神社(若宮・破損)
貞享三年(一六八六)花岡八幡宮
元禄十一年(一六九八)辨財天(二宮町)
元禄十四年(一七〇一)切山八幡宮
元禄十五年(?)(一七〇二)米川神社
宝永四年(一七〇七)河内神社(大藤谷)
宝永五年(一七〇八)松尾八幡宮(宮本)
享保八年(一七二三)花神社(香力)
延享二年(一七四五)深浦八幡宮(柱のみ)
寛延二年(一七四九)天満宮(花岡八幡宮)
宝歴八年(一七五八)笠戸神社
明和八年(一七七一)貴布袮神社(荒神)
安永三年(一七七四)米川神社
安永四年(一七七五)嶽神社(来巻)
安永八年(一七七九)人丸様(下高塚)
天明六年(一七八六)八坂社(黒抗)
天明六年(一七八六)三嶋社(出合・破損)
天明六年(一七八六)末武祇園社(右柱後補)
天明七年(一七八七)琴平社(中戸原)
天明九年(一七八九)天王様(上地)
寛政二年(一七九〇)河内神社(瀬戸)
寛政三年(一七九一)琴平社(寺迫)
寛政六年(一七九四)琴平社(久保市)
寛政七年(一七九五)花岡八幡宮
寛政九年(一七九七)降松神社(上宮)
寛政十三年(一八〇一)温見神社


松尾八幡宮 鳥居 宝永五年(一七〇八)

花神社 享保八年(一七二三)


深浦八幡宮 延享二年(一七四五) 但し柱のみ残存


天満宮(花岡八幡宮) 寛延二年(一七四九)

 下松市内で最も古い石鳥居は、右のように延宝七年(一六七九)在銘の鳥居で降松神社表参道馬場に在る。この鳥居は『鷲頭山旧記』文化四年(一八〇七)恵實追筆には、
  ◯延寳七己未馬場鳥居建立氏子
    妙見山法印増遍代
と記され又『地下上申』寛延二年(一七四九)に
  一石鳥井(ママ)   若宮馬場ニ有之
とされている。寸法等は次の通りである。
    石質    赤味のある花崗岩
    地上高   二間三尺四寸
    柱間最大幅 一間五尺四寸
    柱外最大幅 二間二尺三寸
    笠木    三間三尺八寸
  額束刻銘 降松神社(改刻)
 銘文は向って右の柱二行の内一行は、摩滅して判読できないが一行は
  立華表上祈武運長久下祷庶民安全
 と刻まれ左柱には不明瞭乍ら
  延寳七己未暦首夏十月八日
  鷲頭寺現住權大僧都法印増遍謹教化焉者也
と彫み更にその下部に田村  の刻字が判読されるが、『鷲頭山旧記』から氏子による建立が明らかであるから、何人かの世話人が、記してあったと思われる。
 この鳥居は、市内最古である以外に、妙見山中興一世増遍和尚代の妙見史上特筆すべき造立遺品である。額束には現在「降松神社」と刻まれているが、『周防國都濃郡妙見山之略圖』嘉永七年(一八五四)から当初「妙見山」と刻まれていたことが明らかである。又現在もこの附近を馬場と称し、妙見山の表参道入口に造立されたものである。額束の石質は他の部分と同様赤味のある御影石であるから、後補ではなく明治三年神仏入替後、以前の額束に改刻を行ったものであろう。柱に記された銘文と額束の書体が異なるのはこのためである。
 この鳥居は戦後御難続きである。昭和四十年トラック接触のために貫が破損(写真参照)同六十年四月再びトラックにより後補の貫及び向って右側の柱が破壊、同六十年十月柱二本及び貫を取替、旧柱は、他へ移転されている。延宝七年造立以来三百年近くも妙見山入口に誇った勇姿は既になく、現在旧地(表参道馬場)に遺っているのは、笠木のみである。

降松神社鳥居・延宝七年(一六七九) 但し貫は後補・(昭和四十五年三月撮影)

 次に古いのが花岡八幡宮の石鳥居である。

花岡八幡宮鳥居 貞享三年(一六八六)

    石質    花崗岩
    柱間最大幅 一間五尺九分
    柱外最大幅 二間一尺八寸六分
    地上高   二間四尺七寸
   額束刻銘 八幡宮
  向って右柱銘文
   防州路都濃郡花岡八幡宮華表於干
   貞享三丙寅春王二月成〓以故銘日
  同左柱銘文
   高然華表以献應帝照古鑑今深根固帯
   地軸不抜天柱何歳花岡改観景福萬也
         願主 田中十郎右衛門
 古いにもかかわらず刻銘がはっきり読めるのは、石質がやや硬く彫も深いためであろう。現在の貫と額束は後補である。
 三番目に古いのが、二宮町辨財天の鳥居である。

辨財天石鳥居 二宮町 元禄十一年(一六九八)

    石質    花崗岩(額束は異質)
    柱間最大幅 六尺七寸
    柱外最大幅 一間二尺六寸
    地上高   一間四尺二寸
 赤御影のため磨滅がひどく、判読可能な刻字のみ示せば
  向って右柱銘文
   夫天女之 者迎授現世福〓遠門當来之覚 
  額束
   辨財天
  同左柱銘文
   元禄戊十一寅正月吉祥日下松東市住人磯邊弥兵衛敬白
 『地下上申』寛保元年(一七四一)には
  一弁財天堂一宇 中豊井村之内ニ有
と記されている。
 「弁財天堂」については下松町の有力町人である磯部好助(好介・与四介)が元禄十六年(一七〇三)十月「東豊井塩浜開作守護神トして、弁才天之堂建立」(『御蔵本日記』)を願い出たものと、元和六年(一六二〇)に東洲崎に藩が、弁才天社の建立を小嶋惣兵衛に許可した二件が史料として存在している。
 次に古いのは切山八幡宮の石鳥居である。

切山八幡宮鳥居 元禄十四年(一七〇一)

    石質    花崗岩(赤)
    柱間最大幅 一間二尺九寸
    柱外最大幅 一間五尺五分
    地上高   二間一尺四寸
  向って右柱銘文
   華表鼎新勢倚天願心彫石萬自堅
  本庄生土神社前華表銘云
   非惟積善壽孫子随喜村民福没邉
  額束刻銘
   八幡宮
  同左柱銘文
   山陽道周防州都濃郡切山庄住民
  元禄辛巳十肆稔初冬月穀且
   願司藤井八衞浄玄捨財革故鼎建
 この鳥居の柱は、地上一間二尺四寸五分の処で接いでいる。運搬のためとする説もあるが、長い石材が不足したためとも思われる。石は高山から運んだと伝えるが定かではない。柱を接いだのは、市内では大藤谷の河内神社と切山八幡宮の二ケ所であって、その位置も上部三分の一の処でいずれも接がれている。この場合枘(ほそ)は余り役に立たたず石の重量による安定であろうが、その技術を高く評価したいものである。あらゆる石造物の中で最も破壊しやすいのが、この石鳥居である。
 次が市内最古の灯籠のある米川神社の石鳥居である。参道途中に目通周囲七尺四寸三分(向って右)と同目通り二間四寸(向って左)の老杉がある。左の杉には径二尺三寸の空洞が存在する。さてこの大杉の手前に、元禄十五年八月刻銘の石鳥居が在る。(紀年銘は元禄十五年であるが、石質等から、それ以降の再建のようである)判明した点を記すと
    石質    花崗岩
    柱間最大幅 一間二尺三寸
    柱外最大幅 一間四尺三寸
    地上高   一間五尺七寸
  向って右柱銘文
   不詳
  額束刻銘
   鉏常神社
  同左柱銘文
   元禄十五龍隼壬午八月
     三月経榮焉
  (右に記した大杉(向かって左)と石鳥居は、平成三年九月の台風により破壊し現存しない)

米川神社鳥居 元禄十五年(一七〇二)


同 左大杉目通三七五cm

 六番目に古いのは、大藤谷の河内神社の石鳥居である。

大藤谷河内神社 宝永四年(一七〇七)

    石質    花崗岩
    柱間最大幅 一間三尺二寸
    柱外最大幅 一間五尺五寸五分
    地上高   二間一尺
  柱は地上一間二尺のところで継いでいる。
  向って右柱銘文
   防州都濃郡大藤谷村
  額束刻銘 不詳(河内神社カ)
  同左柱銘文
   寳永四丁亥二月吉祥日
 小高い処に位置するためか雄大で特に笠木の先端の反りが大きく、又柱の途中でつがれているのは、切山八幡宮と同様である。石材の重量のみで数百年の風雪によく耐えたものである。