判った八基について云えば、安永三年(一七七四)黒杭に造立されたものが最も古い。次に享保年間に二基が造られている。享保・元文頃の比較的古いものは「日本廻國六十六」等の彫銘があり、化・文期以降のものは「火防」の銘が基礎正面に刻まれている。地蔵仏造立の目的の変遷を示すものであろう。

黒抗地蔵仏 安永三年(一七七四)
石仏の範疇に入れるべきものは、多数あるが、次に十王(十仏)と道祖神について記しておきたい。十王(じゅうおう)は冥府で亡者を裁く十人の王を称するもので初七日から三回忌までの十回、十王に裁かれるという。即ち初七日秦広王(不動)、二十七日初江王(釈迦)、三十七日宋帝王(文殊)、四十七日五官王(普賢)、五十七日閻魔王(地蔵)、六十七日変成王(弥勒)、七十七日泰山王(薬師)、百か日平等王(観音)、一年都市王(勢至)、三年五道転輪王(弥陀)で、このように各本地仏が定められている。この十王による裁断を受けて、来世の生所や落とされる地獄が決定されるという。
下松市内では、旧妙音寺の裏山に造立される十王が唯一のものである。塔身一尺九寸高、同下部幅一尺、同奥行五寸二分で普山良門信士、春翁桃悟信士の銘文があるが、年代は刻まれていない。明治以降の新しいものである。

旧妙音寺裏山十王 明治以降なるも年代不詳
次に道祖神は、道ゆく人や村民を災難や悪病から守る神とされる一種の民間信仰で、村境・峠道などに祀ることが多い。像容としては、男女二神が並びあい、あるいはむつみ合うものなどがある。地名としては市域内では、旧河内村に字「道祖神」と称する地名があり、その入口に道祖神を祀っていた。道祖神像は存在しないが、山道に沿い幅四間奥行半間程の盛土があり、戦後しばらくまでは、この上に小石を拾っては投げ、時折馬形の藁細工を手向けていた。この山路は旧河内村から生野屋村に向う重要な山越え路で、山路への入口を越路口、次を道祖神、山頂を越路と称していた。最近付近が開発され恋路バイパス・恋路トンネル等名称にすべて恋の字をあてたがこれは単なる附会であって理解に苦しむ次第である。百姓が鍬を背に夜星をあびながら、帰路を急いだのは、山越えの路なのである。地名は地中に埋もれた土器と同称に、その土地に生きた人々の信仰・文化等の縁由を今日に伝えてくれる史料である。越を恋に変更しては、その姿をとらえることは、後世不可能となる。

字道祖神周辺小字図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
道祖神石仏の内、二神の像形が彫られているものは、市内では一基のみで花岡古墳の横側にある。但し下部の台石は寄せたものである。場所はおそらく後世移動したものであろう。上部のみについて記すと
材質 花崗岩
塔身高 一尺九寸六分
同 下部幅 一尺七分
同 奥行 五寸
右側刻銘 文久二戌八月日
左側 弘中ニ左エ門
中央上部 地正善三
上下・左右に種子らしき刻あるも不詳

道祖神 花岡古墳ヨコ 文久二年(一八六二)
他に一基神像は不在であるが、西市東玉鶴川の横に通称馬頭観音と称する石祠があり、この内部中央に道祖神の刻銘がある。地上高三尺 花崗岩の祠堂である。馬頭観音は忿怒(ふんぬ)の相を表わし一切の魔をうち伏せる法力を有する。石祠のある玉鶴川は豊井村と末武下村の村境であるから道祖神と同様他村からの疫病を防ぐ目的であろう。この方もわら馬を作って手向ける習慣がある。(相本高義談)

馬頭観音『国語大辞典』昭和五十七年(小学館)より

道租神石祠(年代不詳) 豊井村と末武下村の境にある