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(一八) 石碑

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 下松市内には、花岡八幡宮の通称亀石・同多宝塔重脩碑の他孝女満佐(公集小学校入口)・花岡御茶屋跡春雨桜・閼伽井坊前弘鴻(ひろひろし)・金輪神社の七星降臨の碑等立派なものが多数存在するが、いずれも新しいものである。

孝女満佐碑 明治三十年


花岡勘場跡 右下 明治百年記念碑


同春雨桜碑 明治三十七年

 これらの内まず文化十一年(一八一四)建立の旧地蔵院前の亀石について述べよう。

花岡八幡宮石碑 文化十一年(一八一四) 原田庄左衛門建立

 この碑を建立した原田庄左衞門は末武村(現野見山医院附近)に当時広大な屋敷を有し、(同家庭園の項参照)大庄屋を務める一方、花岡八幡宮の別当義詮宥信の実家として、花岡八幡宮とは深い関係の家柄である。
 碑は巨大な自然石の上に亀趺がのりその背に花崗岩の二石を乗せその上が、安山岩の碑石である。台石は山田村字割石(通称枝折・塩売峠)より搬入している。碑石には次に記す銘文が細字で刻されているが軟質のため現在一部に剥落が認められる。
 次に『防長風土注進案』所収の銘文を引用しよう。
  周防國都濃郡末武荘花岡八幡宮は、かけまくもかしこき皇國の御代の守りと鎭座在ます大神にして、まつるところ宇佐におなし、つたへいふ。そのかみ和銅二年己酉の歳彌生のころほひ、里の長なるもののわらはに託りたまひ、朕は筑紫の宇佐のしまにあまくたりし姫大神なり、こヽにすまむことを思ふ、願くは汝いつきまつれ、さるしるしにハひとよのほとにやまをさくらとなし、また岩清水をわかしめむとのたまへり、みさとしのことく千もとのさくらあしたのくもとたなひきかすめるそらに、かくはしくわきいつる〓つまたすか/\し、つひにこの事おほやけにきこへて瑞の御舎をつくり、千木たかしりてかしこみ祭りいまにかう/\し、その〓やつくりしりへにやまのすかたいや高く、ふもとにハ人里いと廣く、左右にハ川のなかれ遠白し青柳のうらもほとちかくて、竈門の關鞠府の浦なみもこヽもとによせくるこヽちす、假殿のあとを上地といひ傳、若宮ここにたたせたもふ、岩清水をあか井といひてこのみつをくみ、天の舞ひとはもろ/\のやまひをまぬかるといふ、またいとなめらかなる石あり、面に駒の蹄のあとをあらはす、神成石といふ、此地を馬上となつくるも、そのいわれなる神ここにしてみうたよ〓したまふといへり、いま年々九月なかの五日にハ言あけ樣のなかうたをうたひて、神幸の道すから聲たからかに神ほきつかふまつるも、實に上代の式の殘るありさまはなやかにおこそかなり、それ花岡の名におけるや、まことにゆへあり、しかるに驛路を花岡といへるハ延喜のひしりの御代に定給ふ生野にして、東は勝間、西ハ平野に隣れるを、あとたれませしとき花ふりし名にめてヽ、何時よりかとなへきたれり、ちかくも豊臣公三韓をことむけしとき、この瑞垣にいのりまうし、宇佐香椎の御使もぬさを奉りしとなむ、原田主大藏谷信種年ころおもひはかり、いそのかみふるきあとをしたひ、よしある趣をいしにゑりしるしをきてむとて、枝折かとふけなるこけむすいしをしたつ礎にせむことを誰かれ共にものし、ちからをあはせこころをひとつにし、からうしてひきよすること十日あまりの日かすをつめり、ひくひと千々にも餘るときけは誠に千引のいはわといふへし、時日をうらへてふとしきたてぬもの石のたたすまひあやに妙なり、みるひとおほそらをあふくここちすといふ、うこきなきまことのいたりハかの石よりもをもかるへし、なをさかゆく末武のよよになかく、民のかまとのけふりにきわひ、はることにさく花岡のその名たえせぬためしを、常盤堅盤につたへてむいさをしを、文化九年葉月のころ事遂ぬと、ふるきこととものかきしるしありしを、こたひ雌黄をくはへてかきあらためむことをもとむれ共、もとより千里の外の事なれハ筆を添へきことはりもあらてさるまま字かきつけはへりぬ
   文化十一甲戌の歳六月八日
             (菅)     石印
      正三位勘解由長官菅原長親   
          原田庄左衛門大藏谷信種建之
 花岡閼伽井坊前にある弘鴻(ひろひろし)の碑文は近藤清石の撰で、書は彼の門人大谷新二によるものである。弘鴻は、文政十二年六月十四日花岡に生れ号を尋石と称した。杉本平三郎・羽山文哉・田中民之丞等について学び洋算・暦学を修めている。碑には明治三十六年一月歿までの多数の業績が刻まれている。

弘鴻


同 遺筆


閼伽井坊前 弘鴻の碑 大正三年十一月

 弘鴻に関する学術研究では『弘鴻の数学上の事蹟並に暦法改革の意見』三上義夫博士著が詳細である。又、『都濃郡誌』『下松市史』等にも掲載されているので参照されたい。
 旧河内村には、大小三十五基の石碑があるが、ほとんどは明治以降のものである。その中では、降松神社宮司原田重庸の碑(門下生百余人が明治二十五年建立)や周防第一の苑・中宮公園記念碑(大正八年建立・長岡外史書)等が有名である。前者の原田家は、大内以来の古い神主家であるが、重庸の代には、村民へ国学・漢学を教育していた。碑は門下生の岩根亀左衛門等による建立である。後者は、中宮の仁王門附近の公園拡張を記念したものである。

原田重庸の碑 明治二十五年門下生建立


中宮公園記念碑 周防第一苑・長岡外史書 大正八年

 筆子建立にかかる碑も多数にのぼるが、松心寺境内には、林文心の墓碑がある。林文心は、徳山藩士林正愛(一〇〇石)の嗣子として天保七年(一八三六)徳山町六四三番屋敷に生まれている。明治二年同藩士林与(献功隊参謀五稜郭にて戦死・一五〇石)の養子に入り、徳山小学校初代校長となり、その後河内村礎部十蔵(郡会議員・代議士)により同村小学校に招かれ二十余年此の地で教鞭を執っている。大正三年三月二十一日死去(享年七十七歳)後門人により松心寺境内に建立されたものである。尚、徳山藩殉難七士の筆頭河田佳蔵は林文心の実弟である。

林文心墓碑 門下生建立 大正三年三月