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(二一) 六地蔵

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 六地蔵は、暗黒の地底を常住として、死者地獄の罪人を救済する特殊な法力を有しているという。六地蔵への信仰は強く、江戸中期以降に至っては、共同墓地ある所には必ず六地蔵が造立されている。
 例えば河内村では、具体的には向八丈・越路・出合・儀生・狐塚・蟹ケ迫・一の谷・粟太郎の墓地に存在し、その内儀生・岡の原・狐塚・越路には、現在も火屋(火葬場)の痕跡が認められる。右の六地蔵について云えば、向八丈宝暦九年(一七五九)、越路明和三年(一七六六)狐塚明和五年(一七六八)の造立が刻銘から明らかであるが他の五ケ所では年号が刻まれていない。いずれも江戸末期以降のものであろう。
 次に市内に安置される六地蔵の内江戸末期までと思われるものが、二十四ケ所存在する。その内紀年銘のあるもの九ケ所、他は年号が刻まれていない。銘文から建立年代の明確なもののみ順をおって列挙すると次の通りである。
六地蔵造立年代西暦所在地
宝永四年(一七〇七)恋ヶ浜墓地
享保十年(一七二五)米川妙音寺墓地
寛延四年(一七五一)高塚墓地
宝暦九年(一七五九)河内向八丈墓地
宝暦十二年(一七六二)花岡野村山墓地
明和三年(一七六六)河内越路墓地
明和五年(一七六八)河内狐塚墓地
文政六年(一八二三)周慶寺阿弥陀堂墓地(笠戸)
文政七年(一八二四)米川平野墓地


恋ケ浜墓地・六地蔵 宝永四年(一七〇七)


米川妙音寺・六地蔵 享保十年(一七二五)


高塚墓地・六地蔵 寛延四年(一七五一)


河内向八丈墓地・六地蔵 宝暦九年(一七五九)


花岡野村山墓地・六地蔵 宝暦十二年(一七六二)

 年号の刻銘はないが、現在旗岡墓地入口に遷されている六地蔵は、基壇幅三尺三寸同奥行三尺・高さ三寸・基礎幅一尺六寸同奥行一尺四寸五分・高さ六寸二分・塔身高さ四尺二寸・地上計五尺一寸二分で下松市内最大である。石質は赤味の花崗岩で像の下にやや浅く請花が刻まれている。二基の像身に損傷があるほかは健在である。この六地蔵の経緯・伝説については『下松市の石造文化財』(下松市教育委員会)を参照されたい。古くは宮洲墓地に在ったものでこの付近の有力町人である小嶋氏・磯部氏の関与するものではないであろうか。

豊井墓地 六地蔵、年代不詳 現在は旗岡団地造成のため団地内に移転されている。 (昭和四十年頃撮影)

 尚余談であるが、平成二年盆に六地蔵への参詣状態を調査したところ、下松市内二十四ケ所中全く参拝の形跡なきもの四ケ所、逆に溢れる程供花のなされている墓地が十一ケ所、他は参詣が認められる程度である。平成初期の六地蔵信仰のお粗末な調査である。