これらの塔は教典の文字を小石に書いて、納めたものである。下松市内に於ける法身塔は、七基あって造立年代は、下記の順である。
最も古い法身塔のある琴平社は、河内大毛(久保市)にあって、享保五年(一七二〇)久保市中虫除祈願のため創建した(『都濃郡神社明細帳』明治十二年十二月)小社である。右の創建年代が誤りなきとすれば、法身塔は刻銘から宝永五年(一七〇八)の建造であるからおそらく、造立者原田家の裏にあった大日堂(のち八坂社に変更)が廃社となった際、琴平社に移したのではないであろうか。経典六万余の文字を石に書いて納めたと刻み法身塔銘文は次の通りであるが、現在苔むして石質が判然としないがおそらく基礎はやや軟質の花崗岩、他は良質の安山岩であろう。又塔身の刻銘は達筆で六面に深く刻まれている。
石質 塔身・球形台安山岩
同 基礎 花崗岩
地上総高 四尺一寸五分
塔身高 二尺六寸
球形台高 五寸九分
基礎高 九寸六分
基礎幅 二尺二分
同 奥行 一尺九寸

久保市琴平社 法身塔 宝永五年(一七〇八)

久保市琴平社法身塔実測図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
六面の銘文は次の通りである。

久保市琴平社法身塔銘文 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
西教寺の法身塔は、岩山氏の造立するもので、基礎石は花崗岩、塔身は安山岩である。軟質のため上部が欠失しているが刻は深い。地上高四尺三寸で銘文は次の通りである。
正面銘文
碑云 浄土三部妙典一字一石謹而書写
藏於此塔地矣奉追薦雙親菩提也
右側銘文
維 天明四甲辰稔孟冬上弦
方先考百日之忌經營供養焉
左側銘文
岩山氏某等敬白

西教寺・岩山氏 法身塔 天明四年(一七八四)
三番目に古いのが恋ケ浜慶雲寺の法身塔である。戦争の被害を受け損傷が多い。
石質 花崗岩
地上高 九尺五寸七分
基礎石幅 四尺四寸九分
銘文
右側 寛政二庚戍歳
三月吉祥
左側 當山三世

慶雲寺法身塔 右 文政五年(一八二二) 左 寛政二年(一七九〇)
転倒寸前であるが、爆撃によって受けた傷痕は、戦争の悲惨を永遠に語り伝えてくれるであろう。
尚、当寺には、文政五年(一八二二)に同称の趣旨の塔が建立されている。当山五世鳳山代のもので爆撃のため宝珠・請花が欠失している。基礎幅六尺二寸七分である。
このように教典の文字を小石に書いて納めた塔を大乗妙典塔とも称している。
蓮生寺の大乗妙典塔は地上高九尺七寸三分基礎幅五尺の立派な塔である。建立者である内富源左衛門は、蓮生寺を創建した堀家の姻戚にあたり、同家と比肩する富豪で、天保八年(一八三七)には大庄屋を勤めたことが『都濃郡宰判本控』から明らかである。
銘文
正面 大乘妙典塔
右側 文化乙亥中秋
内富源左衛門彦継敬建
(他略)

蓮生寺大乗妙典塔 文化十二年(一八一五)
尚同姿の石塔が旧妙音寺(米川)に存在している。基礎幅五尺五寸地上一丈一尺七寸で文政三年(一八二〇)の造立である。
法身塔 | 造立年代 | 西暦 | 所在地 |
妙典塔 | |||
宝永五年 | (一七〇八) | 久保市琴平社 | |
天明四年 | (一七八四) | 西教寺(熊行) | |
天明八年 | (一七八八) | 和田墓地 | |
寛政二年 | (一七九〇) | 慶雲寺(恋ヶ浜) | |
文化十二年 | (一八一五) | 蓮生寺(末武) | |
文政五年 | (一八二二) | 慶雲寺(恋ヶ浜) |
最も古い法身塔のある琴平社は、河内大毛(久保市)にあって、享保五年(一七二〇)久保市中虫除祈願のため創建した(『都濃郡神社明細帳』明治十二年十二月)小社である。右の創建年代が誤りなきとすれば、法身塔は刻銘から宝永五年(一七〇八)の建造であるからおそらく、造立者原田家の裏にあった大日堂(のち八坂社に変更)が廃社となった際、琴平社に移したのではないであろうか。経典六万余の文字を石に書いて納めたと刻み法身塔銘文は次の通りであるが、現在苔むして石質が判然としないがおそらく基礎はやや軟質の花崗岩、他は良質の安山岩であろう。又塔身の刻銘は達筆で六面に深く刻まれている。
石質 塔身・球形台安山岩
同 基礎 花崗岩
地上総高 四尺一寸五分
塔身高 二尺六寸
球形台高 五寸九分
基礎高 九寸六分
基礎幅 二尺二分
同 奥行 一尺九寸

久保市琴平社 法身塔 宝永五年(一七〇八)

久保市琴平社法身塔実測図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
六面の銘文は次の通りである。
右面 | 曩祖道觀謹執日輪當千經手 書毎石處々納之予亦追思其 |
善業書冩小石以納千郊伏〓 上謝四恩下安萬民因銘焉 | |
正面 | 法身塔 |
左面 | 維石維經 六萬餘言 存亡并利 栄期子孫 |
寳永五戊子暦 仲冬日 | |
裏面 | 原田氏義信謹誌 |

久保市琴平社法身塔銘文 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
西教寺の法身塔は、岩山氏の造立するもので、基礎石は花崗岩、塔身は安山岩である。軟質のため上部が欠失しているが刻は深い。地上高四尺三寸で銘文は次の通りである。
正面銘文
碑云 浄土三部妙典一字一石謹而書写
藏於此塔地矣奉追薦雙親菩提也
右側銘文
維 天明四甲辰稔孟冬上弦
方先考百日之忌經營供養焉
左側銘文
岩山氏某等敬白

西教寺・岩山氏 法身塔 天明四年(一七八四)
三番目に古いのが恋ケ浜慶雲寺の法身塔である。戦争の被害を受け損傷が多い。
石質 花崗岩
地上高 九尺五寸七分
基礎石幅 四尺四寸九分
銘文
右側 寛政二庚戍歳
三月吉祥
左側 當山三世

慶雲寺法身塔 右 文政五年(一八二二) 左 寛政二年(一七九〇)
転倒寸前であるが、爆撃によって受けた傷痕は、戦争の悲惨を永遠に語り伝えてくれるであろう。
尚、当寺には、文政五年(一八二二)に同称の趣旨の塔が建立されている。当山五世鳳山代のもので爆撃のため宝珠・請花が欠失している。基礎幅六尺二寸七分である。
このように教典の文字を小石に書いて納めた塔を大乗妙典塔とも称している。
蓮生寺の大乗妙典塔は地上高九尺七寸三分基礎幅五尺の立派な塔である。建立者である内富源左衛門は、蓮生寺を創建した堀家の姻戚にあたり、同家と比肩する富豪で、天保八年(一八三七)には大庄屋を勤めたことが『都濃郡宰判本控』から明らかである。
銘文
正面 大乘妙典塔
右側 文化乙亥中秋
内富源左衛門彦継敬建
(他略)

蓮生寺大乗妙典塔 文化十二年(一八一五)
尚同姿の石塔が旧妙音寺(米川)に存在している。基礎幅五尺五寸地上一丈一尺七寸で文政三年(一八二〇)の造立である。