ビューア該当ページ

(二八) 大谷溜池堰堤

219 ~ 220 / 541ページ
 堰堤は、野面石のままではなく、黒髪の御影石を加工して表面に使用している。市内では「大谷溜池」の堰堤が石造物関係で築立中最大である。
 通称大谷ダムは一般に云われているように日立製作所の工場用水を目的として建設したものではなく、下流域の塩田を水田に変えるために久原用地部が建設したもの(『日立笠戸』平成八年兒玉三男一氏・談)である。又田中正四郎氏(元日立営繕課長)も初期の目的は工業用水ではなく水田への灌漑用水であったとの証言である。

大谷溜池堰堤


大谷ダム地形図 『下松市域図』昭和五十年

 用地買収は昭和八年(土地登記簿)にはじまり、施工は同十一年七月からで同十三年には完成(『下松大観』昭和十三年・防長民報社)している。堰堤は重力式ダムで表面を花崗岩で組み、高さ九〇尺(二七・三m)長さ一六五尺(五〇m)貯水量一四万m3(余水吐三門・下部に補堰堤を有す)で開墾地二十三町歩をはじめ付近田地十五町歩に補給出来るものである(『下松大観』)。その後久原用地部の経営は、久原房之助氏から山田孝太郎氏へと受継がれた。昭和十八年に至って山田氏は、「久原用地部」を「下松土地株式会社」に名称変更、更に溜池は、日立製作所に譲渡され昭和二十一年三月五日付で土地の所有権移転をしている。購入後直ちに日立製作所は、大谷水源地通称浄水場を設け市の水道に切り替える昭和三十年頃まで、日立病院・江口・大谷・双葉各アパート宮前社宅等の日立関係の施設の外、豊井小学校(相本高義氏談)等にも給水を行っていた。堤防内部の構造については、田中正四郎氏が「このようなものは設計図も必ず一緒に購入するのが慣例で、日立のどこかに在るはず」と話されたが現在は存在しないようである。