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(二) 経過

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 水車は外国では紀元前一世紀の頃、西アジアで発明され、それから漸次ヨーロッパヘひろまったと伝えられる。おそらく人間の発明した原動機では、最古のものであろう。河内村にもかつては、自然の流れを利用して、臼の中の米、麦を搗くガッタリ・ボットリ(河内村ではバッタリ・タンコラター)と称するものがあった。普通一斗の玄米を足踏みの台唐臼で精米すれば、一五〇〇回踏まねばならない。単調な仕事ではあるが、根気と時間を要する仕事である。もし水さえあればバッタリはこれらを解消してくれる。バッタリは、唐臼の人間が踏む部分を、丸木を刳った杓子形の水受けにして水を流しこむように装置したもので、原始的なものでもあり、この地方でも早くからの普及が考えられる。
 しかし我々が一般に水車と称するものは、水受けの水槽を多数つけて、自転する車軸の回転を利用するものである。この種の水車が、普及したのは一般に元禄~享保(一六八八~一七三五)期以降とされているが、水車の河内村への移入は、更に遅く江戸末期と考えてよいであろう。その後明治に入り、切戸川を本流とし、支流に吉原川・小野川を有する河内村は、豊富な水量と落差を有し、急速に水車の普及を見ることとなる。最も古い明治二十年の閉鎖簿と聴取調査による記録では、既に営業用水車が十八ケ所存在する。更に私の調査では、明治後期に入り、出合・大坪・久保市の三ケ所に、大型の営業用水車が新設され、径二間半以上の大車(おおぐるま)のみでその頃計二十一ケ所を数えることが出来る。河内村東西約三・五kmの間に、二十一挺の大車が存在したことになる。資料に乏しいが、水車の多い村といえよう。
 当時水車業を営む者は、俗に大車と称せられる径二間半~三間の営業用水車を所有し仲買が集荷した防長米を水車で搗いて船便で大阪へ出荷することを、主たる業務とした。大阪は「水の都」と称せられる程の水量を有し乍ら、水の落差が取れず、水車をかけることは、不可能であった。このため防長米は、すべて白米にして出荷していたのである。蓋しこのことが、河内村に於ける水車業の発展を保証したのである。大阪の「阪東商店」、「浅岡商店」、「菅野注七」等の下松水車商会宛仕切証(後に掲載)や関係者の証言によって、往時を偲ぶことが出来る。

大阪「阪東商店」から「下松水車組合」宛防長白米百俵に対する仕切書(明治四十二年五月)


大阪「浅岡商店」から防長白米二十一俵の「下松水車組合」宛仕切書


大阪「浅岡商店」から「下松水車商会」宛防長白米百俵の仕切書(明治四十二年一月)


大阪「浅岡商店」から「下松水車組合宛」白米二十五俵の仕切書 (明治四十二年八月)


「下松水車商会」関係資料

 しかしこれも永くは続かなかった。大正末から昭和初期にかけて、既に衰退の一途をたどることになる。この原因については、水害による水車井堰の流失(河内村を流れる切戸川は、本流のみで、明治時代十三の井堰があるが、その内六ケ所は車井手と称して、水車専用のもので、水害による修復は、すべて水車業経営者の負担となる)経営者の営業不振に起因するものもあるが、主たる要因は、タービンの発明による従来水車の頽廃である。更に主たる出荷先であった大阪でもまもなく発動機、電力が普及し、事情は一変した。白米にして大阪へ送ることは無用となり、水車はその使命を終えることになる。このようにして河内村で営業用水車廃止の後、タービン、発動機にかえて精米所を存続させたものは、二十一ケ所の内わずか四ケ所のみであった。
 この営業用水車とは別に、四、五軒の共同出資による催合車(径一間程度)がある。これは日割で一昼夜当番で搗いたり、二日交替で使用するもので、河内村にはバッタリと合わせて、十一ケ所に存在したが、これは右の大車とはやや趣きを異にする。タービンや発動機の発明にも直接の影響を受けず、昭和二十四年頃まで、ゆっくりと廻り続けた。だが戦中戦後の食糧難は、水車小屋の米泥棒を招き、このことが催合車の廃止を早めたと言われている。昭和二十四、五年を最後にその姿を留めない。
 このような動力源としての利用の他に、人工的手段による揚水にも水車はよく利用される。他村の例であるが、明治三十九年の記録では(現・光市)千歳大橋付近から熊毛町三丘地区にかけて二三〇ヘクタールの田圃に七十九挺の水揚水車が連なっていた(本章後部写真参照)という。所謂灌漑用水車であるが河内村では、余り利用されなかったようで、それについての証言や記録も存在しない。