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(三) 水車敷一覧

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 後に掲載する水車敷の一覧表のうち字・番地・地積・土地所有者は明治二十年の土地台帳により、その他は現在の土地所有者の他付近の関係者からの証言をそのまま記入したものである。その内土地所有者は、実際の水車場経営者と必ずしも一致しない。後者こそ重要であるが、明治時代のそれを正確に調査することは、残念ながら不可能である。特に営業用水車の場合、土地所有者が数年置きに変った事実は、水車業の厳しさ、存亡興廃を意味するものである。摘要に於いてはこの村では、古来径二間又はそれ以上のものを大車と称していたが、便宜上更に一間半~二間のものを中車、一間程度のものを小車として記入した。(註一)

自家用小車水車の一例 径一間・天井車

 調査にあたっては、旧河内村を六ケ所に分け、それぞれの案内者により水車場とその水路(車溝)を追跡し、尚可能な部分は、登記簿により再確認を行ったこと右に述べた通りである。
 (註一)『防長風土注進案』三井村の項では水車之事として「一車軸木心木とも申候、五寸角位〓て長壹丈位但都〓大車之部差渡壹丈貳三尺位〓〓羽根板貳拾四枚、中車之部は壹丈壹貳尺〓〓羽根板貳拾枚、小車之部〓八尺より壹丈位迄羽根板拾六枚(以下略)と詳しく分類している。
     又河内二七二七番地に残る水車の軸木は径一尺一寸あるが、三井村の方は田圃へ揚水用、後者は精米用であるから単純に比較は出来ない。
 次に河内村に於ける水車場を地図に示そう。

旧河内村水車場一覧図 「下松市管内図」に加筆作成 但し◯印内の番号は河内村水車場一覧表の番号を示す

 尚右図に於ける水車場を所在地別に一覧表で示せば次の通りである。
地図番号旧河内村水車敷一覧表
番地地積水車敷所有者摘要
1向八口六八二一歩明治二〇年 清木美介
明治二三年 清木太一郎
明治二四年 田村竹治郎
明治四九年 田村亀蔵
明治二〇年登記簿には水車敷とあるも水車は実在せず、下記六九番地の水車作業場として使用
2向八口六九四畝
外石垣六歩
明治二〇年 中村安兵衛
明治二一年 山田房之進
大車(営業用)精米、精麦、籾摺を行うも昭和初期山崎氏の経営を最後に廃止
3高根八四の東約一歩官有地小車、大正末新設三軒催合車水量乏しく、時折使用、まもなく廃止
4大河内一五五四畝二四歩明治二〇年 清木勇太郎
明治二二年 石田利兵衛
明治二五年 清木太治郎
明治四三年 清木四郎
大車(営業用)精米、製粉、籾摺等を行う。清木四郎氏昭和五年頃廃止
5大河内一九二一畝一歩明治二〇年 清木和吉
明治二三年 清木常吉
大車(営業用)精米、精麦、籾摺、製粉等を行う。昭和初期水車廃止後はタービンに変更。戦後はモーターにより昭和二四年頃まで営業
6念仏田二七九の東端約一歩明治二〇年 伊藤平吉
      浅原彦作
小車(自家用)大正初期浅原彦作氏新設昭和一〇年頃廃止近所の者も時折借用
7中戸原四〇四五畝明治二〇年 有吉三郎太
明治二六年 弘中勝衛
明治二八年 山県虎次郎
明治三三年 山県庄介
大正一〇年 渡辺友一
大車(営業用)籾摺、精米、製粉等を行う。昭和四年古木氏廃止
8中戸原四一三一畝二三歩
脚地三歩
明治二〇年 岡村寿一
明治二二年 清木半治郎
明治四一年 清木祐祐
明治四二年 平富角太郎
明治四四年 浅原〓三助
大車(営業用)精米、精麦、籾摺、製粉等 昭和初期水車廃止後はタービンに変更
9中戸原四一四二九歩
外二歩脚地
明治二〇年 岡村寿一
明治二二年 清木半治郎
明治四一年 清木祐祐
明治四二年 平富角太郎
明治四四年 浅原〓三助
水車は実在せず上記四一三番地の水車場として使用
10出合四九八二畝明治二〇年 磯部十蔵
明治二四年 磯部平作
大車(営業用)精米、籾摺、製粉等、明治末再開、木原氏廃止後はタービンに変更
11出合五二〇の西端約一歩明治二〇年 中畑虎吉小車(自家用)大正末期から昭和二五年頃まで自家用精米を行う
12大坪五五七の西側約一畝明治二〇年 中畑虎吉大車(営業)内富氏明治末新設昭和初期廃止、精米一般を行う
13久保市七三七二畝二五歩明治二〇年 原田九市郎
明治三九年 板村光治
明治四一年 蔵田春蔵
大車(営業)当初は主として原田酒場の醸造用精米を行う昭和初期井堰流失を機に廃止
14久保市七五二の東側約一畝明治二〇年 松村庄兵衛
明治二二年 松村冷蔵
大車(営業)明治末創業 天井車、精米一般、大正中期廃止
15一の谷九三六の北端約一〇歩明治二〇年 松村傳兵衛中車、大正末久保市の者五~六軒で組を作り二~三軒ずつ当番で使用
16一の谷〇・五歩官有地小車、市川加作氏昭和初期一九才の時玄米一俵で径三尺の小車を造らせ約一〇年間使用の由
17下小野一、〇九二一五歩明治二〇年 原田松治郎大車(営業用)大正末廃止 主として籾摺、他に精米一般
18上小野一、一七六一四歩明治二〇年 清木美介
明治二三年 清木太一郎
明治三〇年 佃鉄左衛門
大車(営業用)主として籾摺に使用、大正末廃止
19黒杭一、二三一一畝一歩明治二〇年 猪本繁治郎
明治二三年 猪本美三郎
明治三六年 松村義一
大車(営業用)精米、精麦、籾摺等、大正末廃止
20成川一、三七三三歩明治二〇年 兼清国吉
明治二八年 兼清信一
小車、主として籾摺を行う 大正末廃止、催合車?
21成川一、四一八九歩明治二〇年 有田代治郎
明治二三年 有田清太郎
明治三二年 有田甚吉
明治三二年 永井清太郎
大車、主として籾摺に使用 他は不詳
22成川一、四四七一畝一歩明治二〇年 軍場林之助
明治三六年 軍場 線
大車(営業用)籾摺、精米等、大正末大水による水車流失を機に廃止
23金積一、七八五の東端約一歩明治二〇年 磯部平作
明治三四年 磯部謙作
明治四一年 磯部輪一
小車(自家用) 昭和初期新設 同二八年頃廃止 米搗
24南出合一、八一五二九歩明治二〇年 山田房之進
      山田恒造
大車(営業)主として精米を行う 昭和初期藤井太平氏廃止
25一、九〇〇一畝二七歩明治二〇年 原田藤吉
明治二六年 大木坂治郎
大車(営業)米搗、籾摺、大正中期廃止
26吉原一、九七六の南約一歩官有地バッタリ、三軒催合、昭和初期開始、同二三年頃廃止
27吉原一、九九二の南端約一歩明治二〇年 清木藤十郎
明治四四年 藤尾善吉
明治四五年 藤尾義雄
小車、四軒催合、昭和二二年頃廃止
28吉原一、九九九の南端約一歩明治二〇年 清木竹治郎
明治二七年 清木十郎
小車、昭和二四年頃廃止 四、五軒催合車
29吉原二、〇三四の北東約一歩半官有地小車、三軒催合精米、昭和二五年頃廃止
30吉原二、〇六二一畝二七歩明治二〇年 清木竹治郎
明治二七年 清木十郎
大車、精米、籾摺等
昭和初期廃止
31吉原二、〇六四の南約一歩官有地バッタリ、三軒催合、昭和二四年頃廃止
32吉原二、〇七五
第一
一畝一三歩明治二〇年 藤田茂一
明治二五年 土田小三郎
大車、主として籾摺に使用 昭和七~八年頃廃止
33吉原二、〇七五
第三
約二歩明治二〇年 藤田茂一
明治二五年 土田小三郎
中車、四~五軒催合、米搗等 昭和二五年頃廃止
34吉原二、〇七九二九歩明治二〇年 吉本嘉作大車、五~六軒催合車、主として籾摺に使用、昭和初廃止
35江ノ尾二、五九八の北約一歩明治二〇年 石津亀吉
明治三八年 石津伴助
小車(自家用)、岩石の露出を利用して川縁に架ける 米搗等に使用
36八口二、七二七の北側八畝一五歩の内約一畝を使用明治二〇年 河村精作
明治三四年 河村好松
明治四二年 河村龍助
大車(営業用)、精米、精麦、製粉等、昭和初期水車廃止後はタービンに変更


字大坪五五七番地の水車場 但し水車業開始は明治末

字中戸原の水車敷と車溝周辺 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


字出合の水車場周辺と車溝 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


字谷水車敷周辺の図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


河内二七二七番地水車敷 川辺約三十坪が水車場である。 大正十三年


河内二七二七番地水車敷 関係水路図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 尚摘要の項は、関係者の証言をそのまま収録したものである。
 下松に於ては、明治時代「下松水車商会」(組合)を組織し、防長米の県外輸出に対応している。後に掲載する「仕切証」は、大阪の菅野注七から下松水車商会へ宛てた仕切証である。このような奮闘にもかかわらず、下松水車商会が二千円に及ぶ多額の負債を残して解散したのは、その後まもなくのことである。
 「仕切証」の内一枚を掲載しよう。白米百俵に対する菅野注七から下松水車商会に宛てたものである。
          仕切証
   一月九日入看
               第九号
   三月三日渡
   一一印 防長白米  壱百俵  四斗
      桝〆 四拾石也
    代金 五百六拾円也
     内金五円六拾銭   手数料
     〃 拾壱円七拾銭  運賃金
     〃 弐円五拾銭   艀賃
     〃 壱円弐拾銭   水揚蔵入賃
     〃 四円五拾銭   弐十日半
               蔵敷保管料
     内金五百五拾円也  為替金
               一月十二日 期日
     〃 七円八拾五銭  五百五拾円
               三月二日迄五十一日間日歩
     小計金五百八拾参円参拾五銭
     差引金弐拾参円参拾五銭 不足
     三日
     差引金五拾九円九拾六銭
     右之通り御座候也
      明治四十六年三月五日
                 菅野注七
   下松水車商会殿
                   余白紙
(昭和五十九年十二月)


大正五年頃の水車。但し水揚車である。 (写真は光市文化センター蔵)


跳ねてんびん(但し復元) 中国新聞 平成十三年八月十五日
(前頁の水揚車と同様田圃への灌漑用であって本章で記した水車とは関係がない)