自家用小車水車の一例 径一間・天井車
調査にあたっては、旧河内村を六ケ所に分け、それぞれの案内者により水車場とその水路(車溝)を追跡し、尚可能な部分は、登記簿により再確認を行ったこと右に述べた通りである。
(註一)『防長風土注進案』三井村の項では水車之事として「一車軸木心木とも申候、五寸角位〓て長壹丈位但都〓大車之部差渡壹丈貳三尺位〓〓羽根板貳拾四枚、中車之部は壹丈壹貳尺〓〓羽根板貳拾枚、小車之部〓八尺より壹丈位迄羽根板拾六枚(以下略)と詳しく分類している。
又河内二七二七番地に残る水車の軸木は径一尺一寸あるが、三井村の方は田圃へ揚水用、後者は精米用であるから単純に比較は出来ない。
次に河内村に於ける水車場を地図に示そう。
旧河内村水車場一覧図 「下松市管内図」に加筆作成 但し◯印内の番号は河内村水車場一覧表の番号を示す
尚右図に於ける水車場を所在地別に一覧表で示せば次の通りである。
地図番号 | 旧河内村水車敷一覧表 | ||||
字 | 番地 | 地積 | 水車敷所有者 | 摘要 | |
1 | 向八口 | 六八 | 二一歩 | 明治二〇年 清木美介 明治二三年 清木太一郎 明治二四年 田村竹治郎 明治四九年 田村亀蔵 | 明治二〇年登記簿には水車敷とあるも水車は実在せず、下記六九番地の水車作業場として使用 |
2 | 向八口 | 六九 | 四畝 外石垣六歩 | 明治二〇年 中村安兵衛 明治二一年 山田房之進 | 大車(営業用)精米、精麦、籾摺を行うも昭和初期山崎氏の経営を最後に廃止 |
3 | 高根 | 八四の東 | 約一歩 | 官有地 | 小車、大正末新設三軒催合車水量乏しく、時折使用、まもなく廃止 |
4 | 大河内 | 一五五 | 四畝二四歩 | 明治二〇年 清木勇太郎 明治二二年 石田利兵衛 明治二五年 清木太治郎 明治四三年 清木四郎 | 大車(営業用)精米、製粉、籾摺等を行う。清木四郎氏昭和五年頃廃止 |
5 | 大河内 | 一九二 | 一畝一歩 | 明治二〇年 清木和吉 明治二三年 清木常吉 | 大車(営業用)精米、精麦、籾摺、製粉等を行う。昭和初期水車廃止後はタービンに変更。戦後はモーターにより昭和二四年頃まで営業 |
6 | 念仏田 | 二七九の東端 | 約一歩 | 明治二〇年 伊藤平吉 浅原彦作 | 小車(自家用)大正初期浅原彦作氏新設昭和一〇年頃廃止近所の者も時折借用 |
7 | 中戸原 | 四〇四 | 五畝 | 明治二〇年 有吉三郎太 明治二六年 弘中勝衛 明治二八年 山県虎次郎 明治三三年 山県庄介 大正一〇年 渡辺友一 | 大車(営業用)籾摺、精米、製粉等を行う。昭和四年古木氏廃止 |
8 | 中戸原 | 四一三 | 一畝二三歩 脚地三歩 | 明治二〇年 岡村寿一 明治二二年 清木半治郎 明治四一年 清木祐祐 明治四二年 平富角太郎 明治四四年 浅原〓三助 | 大車(営業用)精米、精麦、籾摺、製粉等 昭和初期水車廃止後はタービンに変更 |
9 | 中戸原 | 四一四 | 二九歩 外二歩脚地 | 明治二〇年 岡村寿一 明治二二年 清木半治郎 明治四一年 清木祐祐 明治四二年 平富角太郎 明治四四年 浅原〓三助 | 水車は実在せず上記四一三番地の水車場として使用 |
10 | 出合 | 四九八 | 二畝 | 明治二〇年 磯部十蔵 明治二四年 磯部平作 | 大車(営業用)精米、籾摺、製粉等、明治末再開、木原氏廃止後はタービンに変更 |
11 | 出合 | 五二〇の西端 | 約一歩 | 明治二〇年 中畑虎吉 | 小車(自家用)大正末期から昭和二五年頃まで自家用精米を行う |
12 | 大坪 | 五五七の西側 | 約一畝 | 明治二〇年 中畑虎吉 | 大車(営業)内富氏明治末新設昭和初期廃止、精米一般を行う |
13 | 久保市 | 七三七 | 二畝二五歩 | 明治二〇年 原田九市郎 明治三九年 板村光治 明治四一年 蔵田春蔵 | 大車(営業)当初は主として原田酒場の醸造用精米を行う昭和初期井堰流失を機に廃止 |
14 | 久保市 | 七五二の東側 | 約一畝 | 明治二〇年 松村庄兵衛 明治二二年 松村冷蔵 | 大車(営業)明治末創業 天井車、精米一般、大正中期廃止 |
15 | 一の谷 | 九三六の北端 | 約一〇歩 | 明治二〇年 松村傳兵衛 | 中車、大正末久保市の者五~六軒で組を作り二~三軒ずつ当番で使用 |
16 | 一の谷 | 〇・五歩 | 官有地 | 小車、市川加作氏昭和初期一九才の時玄米一俵で径三尺の小車を造らせ約一〇年間使用の由 | |
17 | 下小野 | 一、〇九二 | 一五歩 | 明治二〇年 原田松治郎 | 大車(営業用)大正末廃止 主として籾摺、他に精米一般 |
18 | 上小野 | 一、一七六 | 一四歩 | 明治二〇年 清木美介 明治二三年 清木太一郎 明治三〇年 佃鉄左衛門 | 大車(営業用)主として籾摺に使用、大正末廃止 |
19 | 黒杭 | 一、二三一 | 一畝一歩 | 明治二〇年 猪本繁治郎 明治二三年 猪本美三郎 明治三六年 松村義一 | 大車(営業用)精米、精麦、籾摺等、大正末廃止 |
20 | 成川 | 一、三七三 | 三歩 | 明治二〇年 兼清国吉 明治二八年 兼清信一 | 小車、主として籾摺を行う 大正末廃止、催合車? |
21 | 成川 | 一、四一八 | 九歩 | 明治二〇年 有田代治郎 明治二三年 有田清太郎 明治三二年 有田甚吉 明治三二年 永井清太郎 | 大車、主として籾摺に使用 他は不詳 |
22 | 成川 | 一、四四七 | 一畝一歩 | 明治二〇年 軍場林之助 明治三六年 軍場 線 | 大車(営業用)籾摺、精米等、大正末大水による水車流失を機に廃止 |
23 | 金積 | 一、七八五の東端 | 約一歩 | 明治二〇年 磯部平作 明治三四年 磯部謙作 明治四一年 磯部輪一 | 小車(自家用) 昭和初期新設 同二八年頃廃止 米搗 |
24 | 南出合 | 一、八一五 | 二九歩 | 明治二〇年 山田房之進 山田恒造 | 大車(営業)主として精米を行う 昭和初期藤井太平氏廃止 |
25 | 谷 | 一、九〇〇 | 一畝二七歩 | 明治二〇年 原田藤吉 明治二六年 大木坂治郎 | 大車(営業)米搗、籾摺、大正中期廃止 |
26 | 吉原 | 一、九七六の南 | 約一歩 | 官有地 | バッタリ、三軒催合、昭和初期開始、同二三年頃廃止 |
27 | 吉原 | 一、九九二の南端 | 約一歩 | 明治二〇年 清木藤十郎 明治四四年 藤尾善吉 明治四五年 藤尾義雄 | 小車、四軒催合、昭和二二年頃廃止 |
28 | 吉原 | 一、九九九の南端 | 約一歩 | 明治二〇年 清木竹治郎 明治二七年 清木十郎 | 小車、昭和二四年頃廃止 四、五軒催合車 |
29 | 吉原 | 二、〇三四の北東 | 約一歩半 | 官有地 | 小車、三軒催合精米、昭和二五年頃廃止 |
30 | 吉原 | 二、〇六二 | 一畝二七歩 | 明治二〇年 清木竹治郎 明治二七年 清木十郎 | 大車、精米、籾摺等 昭和初期廃止 |
31 | 吉原 | 二、〇六四の南 | 約一歩 | 官有地 | バッタリ、三軒催合、昭和二四年頃廃止 |
32 | 吉原 | 二、〇七五 第一 | 一畝一三歩 | 明治二〇年 藤田茂一 明治二五年 土田小三郎 | 大車、主として籾摺に使用 昭和七~八年頃廃止 |
33 | 吉原 | 二、〇七五 第三 | 約二歩 | 明治二〇年 藤田茂一 明治二五年 土田小三郎 | 中車、四~五軒催合、米搗等 昭和二五年頃廃止 |
34 | 吉原 | 二、〇七九 | 二九歩 | 明治二〇年 吉本嘉作 | 大車、五~六軒催合車、主として籾摺に使用、昭和初廃止 |
35 | 江ノ尾 | 二、五九八の北 | 約一歩 | 明治二〇年 石津亀吉 明治三八年 石津伴助 | 小車(自家用)、岩石の露出を利用して川縁に架ける 米搗等に使用 |
36 | 八口 | 二、七二七の北側 | 八畝一五歩の内約一畝を使用 | 明治二〇年 河村精作 明治三四年 河村好松 明治四二年 河村龍助 | 大車(営業用)、精米、精麦、製粉等、昭和初期水車廃止後はタービンに変更 |
字大坪五五七番地の水車場 但し水車業開始は明治末
字中戸原の水車敷と車溝周辺 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
字出合の水車場周辺と車溝 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
字谷水車敷周辺の図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
河内二七二七番地水車敷 川辺約三十坪が水車場である。 大正十三年
河内二七二七番地水車敷 関係水路図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
尚摘要の項は、関係者の証言をそのまま収録したものである。
下松に於ては、明治時代「下松水車商会」(組合)を組織し、防長米の県外輸出に対応している。後に掲載する「仕切証」は、大阪の菅野注七から下松水車商会へ宛てた仕切証である。このような奮闘にもかかわらず、下松水車商会が二千円に及ぶ多額の負債を残して解散したのは、その後まもなくのことである。
「仕切証」の内一枚を掲載しよう。白米百俵に対する菅野注七から下松水車商会に宛てたものである。
仕切証
一月九日入看
第九号
三月三日渡
一一印 防長白米 壱百俵 四斗
桝〆 四拾石也
代金 五百六拾円也
内金五円六拾銭 手数料
〃 拾壱円七拾銭 運賃金
〃 弐円五拾銭 艀賃
〃 壱円弐拾銭 水揚蔵入賃
〃 四円五拾銭 弐十日半
蔵敷保管料
内金五百五拾円也 為替金
一月十二日 期日
〃 七円八拾五銭 五百五拾円
三月二日迄五十一日間日歩
小計金五百八拾参円参拾五銭
差引金弐拾参円参拾五銭 不足
三日
差引金五拾九円九拾六銭
右之通り御座候也
明治四十六年三月五日
菅野注七
下松水車商会殿
余白紙
(昭和五十九年十二月)
大正五年頃の水車。但し水揚車である。 (写真は光市文化センター蔵)
跳ねてんびん(但し復元) 中国新聞 平成十三年八月十五日
(前頁の水揚車と同様田圃への灌漑用であって本章で記した水車とは関係がない)