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(一) はじめに

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 旧藩時代零細な小作百姓の主食は、米の飯ではない。彼等はよまし麦やアワ・ヒエに野菜をきざみ込んだ雑炊を竹筒に入れて、山間原野の開拓にいどんだのである。農業技術の進歩が容易でなかった時代、稲作増産の努力は、勢い田地面積の拡張を奨励することとなる。近世毛利藩に於ける四白の中でも、特に米の増産については、庶民は勿論のこと、これが藩経済を左右するものだけに、特にこのことに傾注することとなる。灌漑用水路の開発により畠地を田に変更することもその一つであった。藩政時代県内の灌漑事業としては、山口市の長沢池、宇部市の常盤池、柳井市の新庄水路、鹿野町の潮音洞が有名である。最後の潮音洞は岩崎想左衛門が自費をもって、錦川の支流渋川の水を鹿野台地にひいたものである。水路は入水口から洞の入口まで二七〇m、潮音洞八八mでこれにより田地二十一町前余の田地に給水している。
 さてこのような灌漑事業に注目して、旧河内村に於ける寛延二年(一七四九)作成の『地下上申』河内村地下図と明治二十年(一八八七)作成の『分間図』を詳細に比較すると、寛延二年には畠地であった現在の降松神社若宮の東側即ち字谷一帯の丘陵地が、明治二十年には、ほぼ田に変更されていることが判明する。藩政時代このような変更を「畑田成」(はたけたなり)と称し、近世灌漑用水路等の作造により、試験的に稲作を行い、その結果によっては、願い出て田とするものである。収奪主体の藩は、村高の増加に合わせて畑田成として、年貢諸役を加増することとなる。

字谷後浴・杜ケ浴方面を望む

 若宮東側の丘陵地を田とするには、勿論更に高い処から灌漑をする必要がある。字谷付近に於ける灌漑用水路は、更に上流の字一ノ井手の地に井手を造り、屈曲する谷間の傾斜地を進み、みごとに字谷の丘陵地通称「谷の峠」に至っている。
 本論は、その着想、測量技術、又困苦に堪えながらの水路の労作、共同の運用を評価するとともに、これに関する隠れたる慣習を記録にとどめて置きたいと思うものである。

水路は中井手付近で六〇度の急傾斜地を切り開いたところもある。 字中井手(分間図) 『都濃郡河内村明治二十年地誌』