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(二) 概観

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 吉原に御手洗川(手水川)と称する川がある。この川はかつての妙見社の霊地、(閼伽井の浴)鷲頭山の東方より流下するものである。下って字一ノ井手の地海抜七六mの処に、高さ一・三mの石井手で水を堰止め、この水を幅約三〇cm、深さ四〇cm~一・三mの灌漑用水路で、谷方面へ流下給水し乍ら、田地三五筆・三一四枚計八町三反八畝七歩(含畦畔)(註一)を潤している。

一ノ井手(海抜七六m)の入水地点。石井手により田地三五筆・三一四枚・八町三反八畝七歩の畑が田に開発された。

 井手によって堰止められた水は、傾斜角度一・七度、勾配約三八・四分の一をもって字一の井手、中井手、沢白を経て通称谷の峠海抜四四mに至っている。ここまでの距離は、約一、二三〇mその落差三二mである。この谷の峠より更に儀清寺、若宮方面に向う水路及び高ノ倉方面への水路を合わせての総延長は、二、五八〇mに及んでいる。

通称谷の峠分流地点(海抜四四m)

 略図を示せば次の通りである。(第1図)

溝板所在地地図 (第1図)

 (註一)
   田地三五筆、三一四枚計八町三反八畝七歩(但し含畦畔)は、昭和三十五年灌漑水路(含当越)から給水を受ける田地を追跡調査し、その面積を土地台帳(明治二十年)によって、集計したものである。但し昭和三十五年当時は、字沢白二一七三番地に二畝六歩、字谷一八八三番地に三畝の「ため池」が実在しており、更に明治二十年には、字谷一八八五番地に二畝七歩(昭和三十五年には不在)のため池が存在したことが明らかである。これらのため池は、『地下上申』河内村地下図には描かれていない。かかる事情もあって、当時用水路築造により、はたしていかほどの畑田成が成立したかは明らかでないが、ほぼこの面積に近いものであろう。

『地下上申』河内村地下図 山口県文書館所蔵
字谷付近一帯。絵図の作成された寛延二年(一七四九)頃この一帯が畑であったことが分かる