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(四) 開発と経緯

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 畑田成に要する灌漑用水路の開発がいつなされたかは、明らかではない。文献資料に接するまでは、『地下上申』河内村地下図作成の寛延二年(一七四九)から『分間図』作成の明治二十年(一八八七)までの間としておきたい。ただ前述の如く、字一ノ井手海抜七六mの地に石井手を造って入水口とするものであるが、この字「一ノ井手」その下流を字「中井手」と袮するのは、かかる井手、灌漑用水路を作成したために、その後御手洗川に於ける最も上の井手を「一ノ井手」中間を「中井手」と称し、これが後世地名となったものであろう。とすれば井手が造られたのは、地名として登記簿に明記される明治二十年より、地名として定着する相当期間を遡るものでなければならない。

谷一帯灌漑水路図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 次に用水路の開発について、この一帯は藤田家の所有地で灌漑用水路も同家によるものとする説がある。同家は元禄十年十月刻銘の墓石が存在し、古くからの谷の土着であるが、古い時代はともかく、明治七年幾七、同十一年治兵衛の死後は、経済的には衰退の一途をたどっている。次の代市助、助治の郡会・村長への政治志向によるものである。治兵衛死後約十年後の明治二十年には、はやくも同家の所有地は、字谷に於ける全面積の約六割に減じている。更に灌漑用水路から給水を受ける田地に限って云えば、総面積八町三反七畝七歩の内、三町三反八畝二十九歩が明治二十年藤田家の所有である。

谷旧藤田家とその付近・昭和三十四年十月解体前の撮影

 古い資料を欠く憾みはあるが、かかる理由から必ずしも同家による開作とは断定しがたく、この限りでは複数農家による自力開作と見るべきであろう。ただ傍証的資料として、同家は妙見社宮司中興七世惠堯の実家であり、途中天保三年徳山藩毛利家の常祷院(高百石銀二〇枚・天保三年)に転住していること、更に伊藤博文が幼い頃相当期間ソロバン(算数)を習いに通っていること、又同家の後方を後谷・後浴・山林を後山、西側を西ケ浴・西ねきと称するなど藤田家を中心とした地名(通称)が現在も存在していることは、往時の繁栄を物語るものであろう。
 屈曲する人工水路により、谷の丘陵地へみごとに至る高度な測量技術、資材・労賃等百姓の容易ならぬ負担、藩への関係等を想定すれば、少なくとも同家の強力な関与の可能性を含んでいるように思われる。仮に藩の役人が一ノ井手の奥深い原野を一度や二度訪れたとて、あのように屈曲する人工水路の着想は不可能だからである。