本論は関係者からの聴取りや、実地踏査によるもので、今後関連史料が発見されれば合わせて検討することとしたい。最近谷一帯を浅原繁雄氏のお世話で再度踏査したが、休耕田の増加により一部田の荒廃化とともに、あれ程厳格を極めた水番制もかなり寛容になったようである。溝中に埋めこまれた仕切板も摩滅して使用不能のものや、現地に見当らない処が多い。今後何年かすれば、休耕田の更なる増加により水番制は全く不要となり、やがてその制度すら村人から忘れ去られる日が来るであろう。私たちの先祖が歩んだ悶悶の一時代を記録にとどめて置きたいと思う。
現在は休耕田が多く水番表による割当はほとんど不要となった。
あたり一面が緑の稲田であった頃、夏の暑いさかり若い私をつれ歩いて頂いた老人は既に故人となられて久しい。
(昭和六十三年十月)