「古来より言い伝えられていることに、切戸川はもと下松小学校の方に流れていたが、大洪水のため川筋がかわり、現在の切戸川になったといわれている」
と記され又『下松市史』(平成元年・下松市教育委員会・六五頁)には、この旧切戸川河道について、伝説を補足し、次の如く記されている。長文であるが引用しよう。
「原始時代の流路が現状通りであったかどうか、いちど現地にあたって、河道の変遷をたどってみると、久保地区を抜けて下松平野に出た地点(中略)でいかにも不自然に、ほぼ直角に屈折したコースで流れるのが分かる。和光保育園や西念寺の北側の一角に当たり、北方の城山側に向かって、大きく湾曲している。大河内橋から川下の殿ケ浴橋の間は、もともと旗岡山寄りに緩やかに曲がりながら流れたように観察できる。流路を人工的に曲折した公算が大きい。
その川下において、さらに現在の切戸橋から西南西方向に張り出す形状を呈しているが、一帯の地形からいって、むしろ南流したと見るのが自然である。八口地区から旗岡山西麓の緑辺に沿った形で、流路はなだらかな弧を描いて内海に達したらしい。
一八八七年(明治二十)作成の地籍図によると、ほぼその弧上に連なって、東豊井の小字井手・亀崎・丸堤・内堤・黒町・半上・堤田の地割や水路がたどれる。小島開作の東南部付近を河口としたのが、これらの現存小地割からつぶさに検分することができる。現に下松駅の東南方に古川・大みどろの小字名が残り、東南方向の縦長の地割は切戸川のかつての河道の痕跡をうかがわせて貴重である。もとより原始・古代における流路やその後の川筋の変遷をたどるには、何よりも発掘による地層調査の知見をまたなくてはならないが、地籍図に伝えられた地名・地割が、ある時期の旧河道を反映し、それを遺存せしめているとみて、それほど無理な推測ではない。旗岡山沿いのコースは、現流路に先立つ切戸川の旧い水流を示すものである。」
図の如く字八口付近で川は不自然(直角)に屈折している。 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
中央西念寺(裏が切戸川)・左上森崎山 (昭和二十九年二月撮影)
この記述は、切戸川の旧河川敷や、古川についての下松に於ける古くからの伝(通)説を紹介されたものである。
本論はこれらの想定に対し、西念寺北川の屈曲は人工によるものではなく、氾濫等自然の流下によるものであること、又寺迫川・大谷川の下流はいずれも干潟開作の際『御蔵本日記』寛永六年(一七〇九)に収録されるように、新川の付替が行われていて、「古川」の地名は、切戸川の旧河道ではなく、寺迫川の旧河道であったことを新しく主張するものである。(以下下松市市域図・字別図参照)古代の切戸川は、旗岡山寄りに流下し、古川はその地名が遺存するもの、とする説は何ら根拠のない伝説にすぎない。又切戸川は小島開作の東南部付近を河口としたとされるが、小島開作は近世の陸化である。