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(三) 岩崎・小井手・亀崎

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 切戸川は、西念寺北川の神田淵より、更に六七〇m下流に至って、流れは最後の山(森崎山)に接する。ここでは、南側から岩山が迫り、これに接して流れはゆるやかに方向を転じている。明治以降度々この岩を砕いては土石を採取し、道を広げて現在に至っている。つい最近まで、ここは米川の採石場のような風景であった。軟質ではあるが、赤茶けた岩石の採石跡が存在したことは、周知の通りである。突出した岩山は既に『慶長検地帳』(一六一七)に於いて岩崎と称している。そしてこの突出した岩崎(森崎山)が切戸川水流に接する最後の山なのである。これに妨げられて河川がやや反対の西方に寄るのはむしろ当然なことであって、東方の古川方面へ流入した可能性は極めて少ないのではないであろうか。

森崎山(右)は川に突出し山頂には松の巨木が茂っていた。(昭和五十年頃)


森崎山は検地帳には岩崎と称して川に突出していたが現在は削られて一部はバイパスとなっている。

 更に、森崎山の下流切戸川の東域にあたる字土井周辺は、対岸の西域字柳・吉敷・河原に比較して、やや高い海抜を有していた。これは森崎山(岩崎)の突出により、同方向即ち山の下流に切戸川増水による緩慢な堆積作用を来たしたらしく、この土石上に早くから発展したのが土居(土井)の地である(註一)。『慶長検地帳』(一六一七)に於ける土居河原の地名を根拠に、土井の地は開発が遅れたとする説(註二)もあるが、河川近接地はともかく、土井(土居)の地は、付近に比較して高く、既に『寛永検地帳』(一六二五)には原・中村・井の上の次に多く七軒の居住があり、早くから集落が認められる(註三)。この傾向はつい最近まで続き、切戸川東域(土井・土居)が早くから街を形成したのに対し、西側の河原・吉敷は、『地下上申村絵図』寛保元年(一七四一)にも明らかなように全くの田園であった。住宅地となったのは、埋立が容易になったごく近年のことである。
 切戸川が、古川を経て小島開作方面へ注いだとする根拠の一つに地名(字)を挙げている。前述の如く、森崎山(岩崎)の突出は古代から不動であり、同方向(東域)には土石の堆積も早くから認められ、又下流には流れを変えるほどの障害物が不在であることから、東寄りの小島開作の方角に流下することはそれだけで不可能とも思うが、『下松市史』に掲載された地名を簡単に検討することとしたい。
 はじめの「東豊井小字井手」は事実であれば、切戸川の旧河道の存在を意味するが、「小字井手」は誤りであって正しくは「西豊井字小井手」である。小井手と称するこの地には、能行方面と土井方面へ分流する重要な小井手が存在する。単なる分流地点ではあるが、広く豊井村一帯を潤す重要な灌漑用水路で、一方土井方面への水路は途中東西に分かれ、中市・樋の上を経て切戸川に合流する長いものである。かかる事実からこの分流地を「小井手」と称することが地名として定着したものであって、「小井手」の名称は、逆にこの地に大川(切戸川)の存在を否定する史料となる。

小井手で分流した水は、現在の駅裏一帯の田圃を潤していた。(昭和三十年頃)

 ただ小井手の地名は、『慶長検地帳』(一六一七)・『寛永検地帳』(一六二五)・『地下上申』(一七四九)・『山口県大小区村名書』(一八七五)のいずれにも存在せず降って明治二十年の地籍簿(図)が初見であるが、かなり古い時代からこの地に小井手が存在したことは疑う余地がないであろう。
 次に「亀崎」は『寛永検地帳』(一六二五)を初見とする。亀も崎も河川を意味するようでもあるが判然としない。上方に岩崎が存在するのでカミザキ(上崎)の転訛したものであろう。現在の下松小学校付近である。

下松市市域図(昭和50年製)に加筆作成 (1図)

 (註一)鷲頭氏の居館が豊井であったこと、下松公園・森崎山を見張所と推測すれば、切戸川は天然の要塞であり、土居(土井)は西方(陶氏)からの攻撃の備えとするに好都合である。諸説はあるが、早くからの集落形成とあわせて切戸川に隣接する土居に鷲頭氏の侍屋敷を構えた可能性は高いのではないか。
 (註二)『下松地方史研究』 第十五輯 宝城興仁
 (註三)『下松地方史研究』 第十六輯 宝城興仁