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(五) 豊井村と開作

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 下松は内海にそそぐ河川と隆起作用によって、豊かな砂州が発達し、海岸は広く干潟を形成していた。即ち干潟開作の条件は至る所に存在したのである。
 下松に於ける開作の歴史は古く、永仁二年(一二九四)十月十三日付の『北条実政施行状』(東大寺尊勝院文書)には、「小松原出作地頭代」と記され、更に文明十一年(一四七九)十二月周防一宮『玉祖神社御神用米在所注文』(玉祖神社文書)には「下松出作一町分米三石」とされている。又『周防国国衙領散在御保注文』(東大寺文書)にも鷲頭出作保分としての記録の一部が認められる。
 時代は下って、慶長五年毛利氏は、中国八ケ国一一二万石から防長二ケ国に減じた。検地にあたっては隠田畑の検出はもとより、雑穀、屋敷周辺の柿・梅・茶の木に至るまでその対象とし、税率も七ツ三歩成という高率であった。これら窮乏打開のため藩に於いても積極的に開作をすすめている。即ち『徳山藩史』には
  一元禄三年庚午三月十三日磯部好助先年築立開作石盛成、田壱町七畝弐拾歩畠五反三畝
以下九件(林野開発を含む)の開作が当地に記録され、特に磯部家には、開作塩田に関する史料が多数保存されている(註一)。
 これらの史料からは正確な場所が明らかでないが、下松に於ける干潟開作が古い時代から長期にわたって行われたことは、あらまし理解されよう。前項に挙げた東豊井村に於ける堤(どて)の付く地名はすべて干潟開地なのである。(第2図参照)
 (註一)『下松地方史研究』 第四輯 宝城興仁