
字半上・岡ノ下・黒町周辺 古くからの台地である。

下松市市域図(昭和50年製)加筆作成(3図)
即ち「半上」は畔上(畦畔の上)の転訛したもので、この場合は干潟開作地やあぜの上であろうし、「黒町」は壠町(壠・くろ=小高くなった処)であろう。「岡尾」は現在の日立乗越クラブ付近で尾根続きの丘陵地である。『慶長検地帳』(一六一七)には既に八軒の人家が存在する(註一)。近年に至って、日立笠戸工場の造成は、ここに居住する十三軒を字半上に移転し、この地と更に裏山の土砂をもって埋立てたものである(註二)。
寺迫川より東部では、大谷川・正立寺付近を中心としてかなり顕著な扇状地の地形を呈している。これは背後大谷山の土石堆積によるものであり、やや西は、大谷山の山麓に位置した緩斜面を主因とするものであろう。
大谷川を中心とするこの周辺の台地開発は早く、緩斜面一帯は海に近く州鼻は入舟に好都合で、鷲頭氏居館の素質を有する悠々の地である(註三)。
(註一)『下松地方史研究』 第十六輯 宝城興仁
(註二)武居一朗氏証言
(註三)鷲頭氏の居館を御園生翁甫先生は、殿ケ浴に比定しておられる(『防長地名淵鑑』昭和六年)が、殿ケ浴は、舟泊に不便で、水量に乏しく冬は寒く北向きで傾斜が強く、狭隘な浴である。近年の開発をのぞく明治二十年の地籍図では、それらしき屋敷跡は存在しない。おそらく居館は、豊井に存在したであろう。
ではこの地を殿ケ浴と称したのは、いかなる理由によるものであろうか。森崎山の急峻な岩山は切戸川に突出し、牛馬の通行すら容易でなく、中世に於ては奥地から豊井(居館)方面への通路は、もっぱら山路を利用したであろう。この殿様の屋敷に通じる浴を殿ケ浴と称したのではないか。いずれにせよ偶然の遺構発見までは推論にすぎない。