この川は、寺迫の奥浴を発して降る幅一間余りの小川で平野に出た地点で前述の丘地と湿低地の境目を流れている。現在は都市計画により、流路を改修し、地下に埋める等の変化があるが、掲載した昭和五十年製作の『下松市市域図』(第3図)に見られるようにかつては字塩入付近に至って不自然に流路を東に寄せ、小高い岡尾の斜面ぞいに流下し、更に下って堤田・外堤の間(第2図)(註一)を通り大谷川に合流して湾に注いでいる。この合流は、支流が本流に合流するのとは性格を異にする。
大谷川(右)寺迫川(左)の合流地点
寺迫川の地形を観察すると、川底は西側の字塩入の田地より高い所謂天井川である。このため明治二十年の分間図では、字塩入付近で川幅三mに対し低地の西側には幅四mの土手(道と共用)(註二)を造り、これによって低地への流入を防ぎながら、前述字岡尾の緩斜面にそって流下せしめている。『下松市市域図』(昭和五十年製)を参照されたい(第3図)。仮にこの土手を取除けば、水は直ちに西方の低地に向うであろう。流下すればそれは「古川」の地である。
以上付近の地形から寺迫川下流が人工によるものであることは、明らかであって、「古川」と称せられたのは、切戸川ではなく寺迫川の旧河道と断定してよいであろう。土手(道と共用)の築造は、字塩入が岡尾と接する地点から始まり流路はこれより若干上流の字海善寺一五一〇番地付近から不自然となっているので、この付近が付替起点である。この地を寺迫川付替起点とすれば、大谷川合流までで約五九〇m(幅約一間半)の新川開堀である。合流地点より下流は、舟泊場等多目的の河川構築と推考され幅九mの川は、架橋等の変化はあるが、『地下上申村絵図』(一七四九)とも一致し、現在もよく往時の姿をとどめている。
寺迫川・新川付替起点は写真の橋の付近からである。
ではいかなる理由による新川付替であろうか。開作に於ける堤防管理で最大の危険は、豪雨と満潮時が重なった場合である。この場合樋門の排出装置は役に立たない。堰堤内の直接の降雨はやむをえないことであるが、堤防内に河口が在れば、更に上流からの濁流が開作地内部に集中することになる。被害を少なくするためにも、開作にあたって堤防内に河川をさけることは絶対の要件であった。大きい川はこれをさけ、小さな川は流路の方を人工により干潟外部へ付替えることが窮極の手段であった。
次に現在の寺迫川を境に低地(西)と台地(東)に二分されていることに注目されたい。いずれの干潟開作も同様であろうが、右に述べたような理由で、干潟低地内の河川付替ではその効果を上げがたい。一気に開作地外部に移動することが必要なのである。開作地外部の丘地字岡尾付近に河川を移動させることが可能であれば、土手に要する土石の運搬を短縮させることにもなる。即ち丘陵地の端部を掘り取り、出来た窪地を川とし、堀土は横に移動して土手とすればよいからである。堤田をのぞき川が低地ではなく、逆に台地に沿って流下していること、大きい土手・天井川は、人工による新川であることの証拠である。
付替の時期は明確でないが、古川の地名は既に『慶長検地帳』(一六一七)に記載され、更に十六年後の『寛永検地帳』(一六二五)にも存在しているから、少なくともそれ以前の開堀であろう。降って『地下上申村絵図』(一七四九)には、現在のように東に寄せ大谷川に合流した図が描かれている。又寺迫川付替後も旧土手はしばらく実在したらしく『大令録』(五十七)には、古川土手の存在を知ることが出来る。その内容を『下松市史』(四六九頁)から簡単に紹介すると、天保元年(一八三〇)九月三日夜東豊井村の住民が、磯部家の煮干小屋を打毀した一件が発生した。この事件で検挙された者を奪還するため村の者が古川土手に鐘を合図に集合し騒ぎ立てたというのである。明確ではないがこの古川土手は、旧寺迫川の土手の残跡かもしれない。更に降って明治二十年の分間図には字古川の地名のみ遺り土手は完全に消滅している。
『地下上申』豊井村地下図・寛保元年(一七四一) 山口県文書館所蔵 左が切戸川、中央の小河川が寺迫川(左)と大谷川(右)
(註一)但し「堤田」は例外である。開作地内部に流入する寺迫川を外部に移動する際、東側の堤田は既に完成しており、これに隣接(堤田の土手を利用して)して寺迫川を移動したものであろう。宝城興仁氏は『下松地方史研究』第十五輯に「検地帳には堤の名のついた地名は多いが、堤田とあるのはここだけであることを考えると古くから土手も築かれており、開作されていた田であると考えれる」と記されている。堤田は寺迫川付替に先だつ開作地なのである。
(註二)この土手を八間土手と称していた。『下松市市域図』(昭和五十年製)(第3図)には、A~Bまでの間が土手として図示されている。古くは、日立宮前グラウンド方向に流下していたと推考される。