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(九) おわりに

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 切戸川が古い時代は東方の古川の方に流れていたという話は幼い頃から何回となく聞いているが、前述のように寺迫川を誤り伝えたものである。明治二十年制定した字別図による東南方向への縦長の地割は、主として山裾の地形や土地の高低差・灌漑水路や道等を主体とした結果出来た明治期の区割である。はるか古い時代つまり原始・古代の切戸川旧河道の研究史料としては右の字別図は適当でない。又『下松市史』には小島開作の東南部付近を河口とした由記されているが、小島開作付近が陸化したのは、たかだか近世のことであって、古代の河口をこの低湿地に想定してはならない。
 現在の寺迫・大谷両河川(下流)は、干潟開作にともなう新川であり「古川」の地名は、寺迫川の旧河道と断定するものである。
 まず河川は、不自然に低地とは逆の岡尾・半上等の丘陵緩斜面に寄って流下しているが、これは開作地内部に濁流の浸入を防ぐため開作地外部に寄せて河川を付替えた結果と考えられる。次に両川は、周囲より高い河床を有し、このため河川幅をはるか上廻る土手(『分間図』明治二十年)通称八間土手によって水は維持流下している。尚干潟開作にあたり両川ともむしろ付替を得策とする地形条件にあり、又付替可能な小河川である。

写真ほぼ中央に~字形の寺迫川(土手)がある。 左端は日立宮前グラウンド (昭和四十年頃)

 寺迫川は古い時代西の低湿地へ流入していたが、付替後その跡地を村人は「古川」と称し、これが後世切戸川旧河川敷として誇張され伝承されたものであろう。貴重な地名伝説ではあるが、字境(字別地割)は、前述のように、土地の高低差・これに沿って造られた用水溝や道路等により明治二十年に作成された字別地割であって、これをもって、古代の切戸川伝説に一歩を進めることは、いかがなものであろうか。
(平成二年十二月)