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(一) 論旨(神仏分離と改号)

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 神仏習合の歴史は古く、既に奈良時代にその姿を見ることができる。仏が仮に神の姿となって現われたとする所謂本地垂迹説が、仏教側から主張された。例えば八幡宮の本地を阿弥陀如来とし、伊勢神宮の本地を大日如来・救世観音とするが如きである。平安時代には、神社の傍に神社の祭祀をつかさどる社坊を建て、更には祭神に本地とされる右の如き仏尊を安置することとなった。その後江戸初期以降の復古思想も認められるが、明治初年に至り、政府は祭政一致の方針を基本とし、神道国教化政策に沿うため、明治元年(一八六八)太政官の上位に神祇官を再興し、従来習合していた神仏の分離を断行した。
 即ち慶応四年(一八六八)三月十七日諸神社に対し、所属する僧侶の還俗を命じ、同月二十八日には、右の如き本地仏をもってご神体とすることを禁じ、仏像・仏具の類を神社から除去させている。このような神道国教策がやがて予期せぬ各地の廃仏毀釈に発展したことは、周知の通りである。
 かかる世情にあって、中世以前からの古い伝統を有する降松妙見社(以下「妙見社」と記す)はいかなる経緯をたどったであろうか。
 この部分のみを要約すれば「妙見社を神仏分離し、かつての妙見を降松神社と改号した」ものと解していることが明らかである。次にこれに関する記述(単純な誤解も多いがそのままとした)を明治以来現在に至るまでの手許の著書から年代順に抜粋すると次の通りである。
『松村家文書』生野屋松村家所蔵・明治三年九月十二日
  「河内村妙見社今般降松神社と御改号被仰付」(以下略・黒神新社頭から六ケ村の庄屋畔頭衆に出された就任案内状の一部である。以上河村註)
『藩史』巻之五 神仏社寺之部・河合裕編纂・明治十四年二月
  「一同年(明治三年)九月七日妙見社号降松神社(クダマツジンジャ)ト改号成」
『都濃郡誌』山口縣都濃郡役所 大正十三年五月
  (前略)「明治十二年若宮に附属せる鷲頭寺を下松町に移し北辰妙見社と稱し茲に神佛の分離を見、本社を降松神社と稱するに至れり」(五四頁)
『防長地名淵鑑』御薗生翁甫 昭和六年十一月
  「舊妙見社、若宮は山麓に近き處に在り。上宮は是より十八町鷲頭山の頂に在り。中宮は其下に在りて中宮と若宮の間二王門あり。中宮上宮を世に奥の院と稱す。明治三年神佛を分離し、社號及び祭神名を改む。」(二五七頁)
『久保村郷土誌』久保村教育会・昭和十一年三月
  「明治十二年若宮に附属せる鷲頭寺を下松に移したり、それより本社を降松神社と謂ふ。これより先明治三年九月神佛を分離のことあり社号祭神名改めたり」(二一一頁~二一二頁)
『大下松大観』防長民報社・昭和十三年十一月
  「斯くて明治三年中宮を改めて降松神社と稱し、同七年二月郷社に列せられたが、」(以下略・一八頁)
『防長風土記』野村春畝 昭和三十二年十二月
  「明治十二年若宮に附属する鷲頭寺を現在の中市町に移し、北辰妙見社と呼称、……茲に神仏分離し本社を降松神社と唱え後年下松神社と改称した」(四〇四頁)
『山口県文化史』昭和三十四年四月 山口県総務部学事広報課
  「下松の旧妙見社は北辰尊星を祀るところで、上宮・中宮および若宮があり、中宮・上宮を奥の院と称していた。また社坊に宮司坊以下の七坊があったが、神仏を分離し、社号を降松神社、祭神を天御中主神と改め、宮司坊を鷲頭寺とした如きがその例である。」(一二四頁)
『山口県政史』上 編集 山口県文書館 昭和四十六年三月
  「都濃郡下松の妙見社は北辰尊星を祭るところで、上宮・下宮および若宮があり、中宮・上宮を奥の院と称していた。また社坊に宮司坊以下の七坊があったが、神仏を分離し、社号を降松神社、祭神を天御中主神と改め、宮司坊を鷲頭寺としたごときがその例である。」(二六七頁)
『山口県神社誌』山口県神社庁 昭和四十七年二月
  「古く妙見社の名あり、明治三年降松神社と改稱す」(九五頁)
『山口県の歴史散歩』山川出版社・山口県社会科教育研究会 一九七四年十一月
  「一八七九年(明治十二)十二月一日、現在の地、下松市中市にうつしたもので、神仏分離以後寺院としてこんにちにいたっている」(六八頁)
  「一八七九年(明治十二)に、鷲頭寺を下松市中市にうつして北辰妙見社と称し、神仏を分離したのち、社号を降松神社と称してこんにちにいたった。」(七〇頁)
『日本歴史地名大系』平凡社・一九八〇年八月 山口県の地名
  「鷲頭山に遷座してからも、上宮は山頂に、中宮がその下、若宮が山麗にあったが、神仏混淆の信仰から、中宮・上宮を奥院と稱し、中宮と若宮の間には仁王門があった。」(二〇七頁)
  (前略)その後宝永三年(一七〇六)に鐘楼門の再建などがあったが、明治維新の神仏分離の際、上宮・中宮・若宮は降松神社として分離され、鷲頭寺は独立、明治十二年(一八七九)現在地に移転した。」(二〇七頁)
『下松市文化財』下松市教育委員会 昭和六十一年十月
  「神仏習合した中世以来の妙見信仰の様子を示し、江戸時代の旧妙見社の実況を示している。」
  「旧妙見社の伝説的縁起、さらに妙見信仰の特色、あるいは寺社一体となった神仏習合の中世的宗教施設の実体、加えて民衆の信仰や参詣風俗などの諸要素を複合的に一幅の画面に描き込んだ点、きわめて興味深く、貴重である。」(三〇頁)
  (以上は『妙見社参詣図』下松市指定文化財についての説明である。河村註)

妙見社参詣図(文化五年)下松市文化財指定 鷲頭寺蔵

『下松市史』下松市史編纂委員会 平成元年十一月
  「北辰をまつった桂木宮は、のち高鹿垣に移り、さらに鷲頭山(河内)にかわった。上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井坊は鷲頭寺と号した。一八七〇年(明治三)、社名を降松神社と改め、七九年神仏分離で西豊井、中市に移転した。」(一一五頁~一一六頁)
  「彼(黒神)が直面している当面の事業は、神佛習合の妙見社を降松神社と名稱を替え、神仏分離を実行することであった。この事業は、庄屋・畔頭の協力がなければ、実現のむつかしい難事業であった。そこで黒神直臣は、庄屋・畔頭を集め、神仏分離の趣旨を説明し、協力を要請したのである。彼は、神仏分離は妙見社だけでなく、総ての神社から仏教色を排除することであると力説したに相違ない。」(五五六頁)
  「ところで神仏分離政策に反対だった明範は、移転後もその姿勢を崩さず、名稱も妙見宮鷲頭寺(河村註・妙見山鷲頭寺)を名乗り神仏混淆の形態を維持して現在に至っている。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。しかし、現在当寺で行われている祈祷作法には、近世の神仏混淆がかもし出していた独自の雰囲気を残しているようにみえる。」(四四五頁)
 明治元年(一八六八)三月神祇官の指令により、因襲久しい神仏習合の弊を改めるに当り、妙見菩薩など今まで仏語をもって神号としたものは、その由緒をただして神・仏を分離し、社名を改号することとなった。これにより妙見社は、神・仏を分離後降松神社と改称したというのである。右に掲載した著書すべてに共通する見解である。ごく最近の著書である『下松市史』(通史編・平成元年)にも、前述の如く、当時徳山藩神社改正方の任務が「神仏習合の妙見社を降松神社と名称を替え、神仏分離を実行すること」(五五六頁)にあったことを記している。

降松神社(若宮) 秋祭り その一


同 その二


同 その三


同 その四


降松神社 若宮拝殿天井木組


同 元旦参拝


降松神社 若宮楼門前石段


同 元旦参拝


北辰閣 妙見山鷲頭寺扁額

 はたして、そうであろうか。まず妙見信仰の歴史的経緯を簡単に見て置きたい。
 妙見は、北辰信仰として本来道教的色彩が強く、特に北辰・北斗信仰を中心とする一つの思想として、渡来人により半島(百済)を経由して伝来したとも言われている。(註一)中世以前は、漠然としてよるべき史料を欠くが、特に中世末・近世に至っては、一山に於いて、我国の伝統的神道との関係は、稀薄であって、妙見社は真言(鷲頭寺)を中心として、成熟した発展期を迎えている。このようにして妙見信仰が仏教と習合し、密教支配に至った原因は、(一)何よりも教義に於いて共通する内面を有したことであろうが、他に(二)妙見(北辰)信仰が固有の教団(本山)を有しなかったこと、(三)更に妙見信仰と密教がともに山岳に於ける呪術的要素を有する等近親な一面を有していたことに起因すると思われる。ともかく妙見社は、中・近世密教的臭味が極めて強く、日本固有の神道による影響を全く無視することは出来ないまでも、神仏混淆形態の範疇に入れるべきか、その経緯と実体について疑問とする点が多い。即ち神仏習合を「日本固有の神道と仏教との融合」と定義してよければ降松妙見社の実体は、歴史的にも「外来神たる北辰信仰と密教の融合」であって、主体たる日本固有の神道(神社)の存在を私は疑問とするからである。

『日本の古代』中央公論社 第七巻付録 古代海上交通概念図 宮崎市定作図
当時は陸づたいに海峡を越えると平穏な瀬戸内海を上っていた。

 既に中世末期には、降松妙見社は仏像を祀り、僧侶による勤行が行われ、例えば上宮遷宮式等に際し、神官の同座がないことが永禄四年(一五六一)永禄十二年(一五六九)の棟札からも明らかである。神事は神官と僧侶の共同作法ではなく、密教による仏前勤行であった。維新政府の神仏分離により神社から仏教色を排除したのではなく、寺院から仏教的色彩を排除した感がある。神仏分離が政府の予期せぬ廃仏毀釈に発展したのではなく、政府が廃仏を断行したとの見方もできよう。降松妙見社については、「神仏分離」や「改号」は、その歴史的実体と懸け離れており、神道国教化政策遂行上の詭弁のように思えてならない。たとえ百歩を譲るとしても、少くとも中世(末)・近世に於いて、一般の神仏混淆形態とは大きい差異が認められる。本論は、このような妙見社の特異な一面を強調し、神仏分離説に再考を願いたいと思うものである。
 更に特筆すべきは、素朴な村民が因襲久しい妙見社と明治三年新しく迎えた天之御中主命を祀る降松神社とは、異質の神(社)と理解していたことである。単に社号変更とは解さなかったのである。このことが、妙見尊(鷲頭寺)を明治十二年豊井村へ移転後直ちに妙見社旧地(吉原)への「妙見堂」創建を惹き起すのである。世に排仏毀釈を当時の世情とする説もあるが、これも又妙見社には当て嵌らない。尚「妙見堂創建」に関する一件は他日稿を立てることとしたい。
  (註一)『下松地方史研究』第二十六輯 相本高義 妙見信仰に関する詳しい紹介があるので参照されたい。