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(二) 縁起に見る妙見社創建と祭神

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 乏しい史料の中から遺存する諸縁起を中心に妙見社の創建由来について、検討してみたい。『大内多々良氏譜牒』(以下『譜牒』と略す)大内政弘在判文明十八年(一四八六)には、
  「(前略)時託巫人日、異国太子来降于日本、為其擁護北辰下降云々、因改其処日下松浦、祀星奉称妙見尊星王大菩薩社以祭之、経三年辛未歳百済国斉明王第三皇子琳聖太子来朝(以下略)」
と記し
 『鷲頭山旧記』(以下『旧記』と略す)別当源嘉在判天正三年(一五七五)には、
  「(前略)吾是北辰也今経三年百済国之皇子可為来朝為其擁護北斗于此為下降云々(以下略)」
として、ともに百済の皇子擁護のため北辰が天降ったことを記している。
 更に『旧記』は、十九行余を置いて、
  推古五年(五九五)「同秋琳聖太子当国都濃郡青柳浦桂木山嶺宮殿御建立九月九日有参籠而従百済持来之北辰尊星之御神体納之琳聖於日本始而被修北辰星供従是奉称北辰妙見尊星王九月十八日定祭日鷲頭庄氏神奉崇敬也(以下略)」
と記していて百済より持来した北辰尊星の御神体を祀り、鷲頭庄の氏神としたと言うのである。ここに縁起の上での妙見社の創建の由来を知ることができる。ここで注意すべきは、琳聖は百済の皇子であって、右に於ける「鷲頭庄氏神奉崇敬」や「北辰尊星之御神体納之」は、日本固有の神を意味しないことである。蓋し妙見信仰は、半島からの移入によるもので、古来からの純粋な民族信仰である神道とを混同すべきではない。

『鷲頭山旧記』天正三年(一五七五)部分 別当源嘉在判(その一) 以下鷲頭寺蔵


『鷲頭山旧記』(その二)


『鷲頭山旧記』(その三)


『鷲頭山旧記』(その四)


『鷲頭山旧記』(その五)


『鷲頭山旧記』(その六)


『鷲頭山旧記』(その七)


『鷲頭山旧記』(その八)

 これらの縁起が、たとえ大内氏の作為によるものであっても、異国(百済)の太子(琳聖)守護のために、日本固有の神が天降ったとすることは、信仰理論上の矛盾である。琳聖守護の星も、太子が神として祀った神体も、持来の北辰尊星も渡来人(琳聖)の信仰の範疇でなければならない。琳聖が百済より持来の北辰尊星のご神体は、日本固有の宗教である神道とは、無縁であることに注意をいたすべきである。桂木山星殿に祀った北辰尊星のご神体は、百済より持来した北辰(七曜石)であって、その意味では「青柳浦(下松)に星が降った」のは後世土着による伝説にすぎないであろう。
 最近は、琳聖を仮空とする説が有力であるが、いずれにせよ妙見北辰思想は、外来の何人かによって、伝播されたことに相違はあるまい。一般渡来人だとすれば、星殿建立までにやや長期を要したであろうが、妙見尊星が異国の神であることに違いはない。
 北辰信仰が、渡来人により伝来した当時の祭神(名)は判然としないが、『旧記』による推古期の星殿創建時には、後述するように「北辰妙見尊星王」や「北斗七曜石」を祭祀している。星信仰が土着し、やがて仏教の習合により妙見菩薩と称せられたのは、一般に奈良末期から平安初期頃(註一)のこととされるから、前掲の『譜牒』や『旧記』に於ける星殿創建年代に誤りがないとすれば、妙見菩薩を祭神とするのは、社殿創建後かなり後のこととせねばならない。それまでは、星殿としての山岳に於ける呪術的性格が強かったものと思われる。即ち星殿創建時代百済より持来の北辰星の神事は、渡来人の伝統的儀式や陰陽道との習合による呪術的修法を原形としたものと推考して大きい誤りはなかろう。(註二)
  (註一)『八城市史』蓑田田鶴男著
  (註二)既に仏教と習合し妙見菩薩として移入されたとする見解もある。