創建・遷座年代 | 祭祀地 | 標高(m) | 社殿名称 | 御霊 御神体 |
推古天皇五年 (五九五) | 鷲頭庄青柳浦桂 木山嶺 (同麓) | 五四 | 宮殿 下宮 | (北辰星) 北辰妙見尊星王 北辰妙見尊星 |
同十一年 (六〇三) | 鷲頭庄 高鹿垣山嶺 | 三四九 | 星宮 上宮 | 北斗七曜石 |
同十七年 (六〇九) | 鷲頭庄 鷲頭山頂 | 二五三 | 星堂 上宮 (星壇) 中宮 | 北斗七曜石 并七宝之玉 妙見星之像 |
但し『鷲頭山旧記』天正三年(一五七五)より作成 |
まず所在地について、桂木山頂は、現在標高五四m、高鹿垣の嶺は、標高三四九m、鷲頭山頂は、標高二五三mといずれも鷲頭庄内東寄りの山頂を選んで星殿を創建している。右の山岳の内、桂木山は標高五四mと低く、高鹿垣は山頂が誠に狭隘である。鷲頭山は深山の上に水源もあり山頂に充分な平坦地を求めることが可能である。燈をそなえ、北辰星に関する呪術修法は、これらの山頂を好都合としたのであろう。右に於ける宮殿の短期間の再度の奥地への移転(右表参照)は、鷲頭氏の勢力伸張とする説(註一)が一般的である。貴重な説であるが、日本神道に於いても、飛鳥時代頃までは、後述するように、神祭はそのつど必要な地に施設を設けていたようであるし、北辰星殿も呪術修法を主とする簡素なものであって、当時は、狭隘な山頂で充分であったと思われる。鷲頭氏と称したか否かは別(註二)としても、何らかの呪術的結果をふまえ、短期間での遷宮を当時は、通例としたのではないであろうか。下松とともに北辰信仰の早期伝播地とされる熊本県八代市球磨川口に於いても、初期度々の還座が既に指摘されている(『八代市史』蓑田田鶴男)。やがて仏教の地方浸透により、例えば法隆寺のような寺院の恒久的・巨大建造物の影響を受けて、神社建築も北辰星堂も移(仮)設時代はやがて終焉をつげることになったと思われる。つまりこの時代が鷲頭山頂への妙見遷宮時代に符合し、建物は恒久的かつ巨大となり、ここに広き山頂や水源を必要とするに至ったと推考している。

桂木山 標高五四m 五九五年北辰尊星をこの山頂に祀ったという。

高鹿垣山 標高三四九mを遠望 六〇三年にこの山頂に遷す。

鷲頭山 標高二五三mを望む 六〇九年この山頂に遷座

妙見社表参道と旧跡等位置図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
北辰信仰を有する百済からの移入者は、血族の強大化とともに、このように山頂に星堂を建立し、これを氏神として祀り、一種の道教・陰陽道的作法を中心として、吉凶を占い、除災招福を祈ったと思われる。即ち北辰信仰をもって、同族結合の要としたのである。血縁集団は、やがて地縁集団へと変じ、神事の統轄者は祭祀を通じて一族を統率し、和平を維持したのである。かかる豪族の首長こそのちの大内氏であった。
次に祭神について、『旧記』は、前掲の如く、「北斗七曜石」や「妙見尊星王」を祀っており、神名が正確に伝えられたか否かに問題が残るが、未だご神体として「菩薩」のお姿はない。即ちここからは、百済伝来の星宿中の北辰を山岳に尊んでまつる異国的儀式の様相を想像することができよう。

星宿図(鎌倉時代・山口県文化財指定)
生野屋の松尾八幡宮に伝えられたが、神仏分離以降社坊の多聞院に移されている。 (下松市提供・多聞院蔵)
降って舒明天皇の御宇五年(六三三)には、『旧記』は次の如き本尊を納めたことを記している。鷲頭山へ遷宮より二十四年後、仏教伝来より約百年後のことで、仏教の伝播・吸収を思わせるものがある。
北斗七曜石
∴ 上宮
虚空蔵菩薩
聖徳太子
推古天皇 左
∴ 中宮 妙見尊星王 中
琳聖太子 右
千手観音
更に大内正恒の代も妙見尊星王他右とほぼ同様の仏像が、祀られている。
聖徳太子
推古天皇
∴中宮社 妙見尊星王
琳聖太子
観音菩薩
更に江戸中期の寛保元年(一七四一)には、次の如き仏像を安置した上申記録『寺社由来』がある。
一上宮本尊虚空蔵御長壱尺三寸琳聖太子御情(請)来也
一中宮中尊妙見尊木像御長壱尺五寸琳聖太子御情来也
千手観音尊像金仏御長壱尺壱寸 右同断
千手観音木仏 御長三尺
琳聖太子木像 御長九寸五歩
推古天皇像 御長九寸三歩
一若宮平生神輿納置来候
以上は『鷲頭山旧記』と『寺社由来』に収録されたご神体であるが、北辰信仰移入にはじまり、仏教との習合、更に中・近世密教支配時代(後述するが)の過程をご神体・ご本尊はよく示していると言えよう。初期の北斗七曜石・妙見尊星王は、江戸中期寛保元年(一七四一)には姿を消し、すべて仏尊に転じている。『旧記』ははるか後世の記述ではあるが、創建当時の北斗星を祭る異国(百済)的修法が仏教と習合し、更に真言支配に至る様相の変化を伺うことができて極めて貴重である。『旧記』は天正三年(一五七五)に作成されたものであるが、このことからも妙見山には更に古い縁起が実在していたことは確実である。(註三)
妙見信仰は、伝統的日本神道からすれば、外来信仰であり、「蕃神」に属すべきものであって史料の上でも下松妙見社に於いては、固有神道との直接の習合は認められない。伝統神である「天御中主命」が天降ったとする文献上の記録は、明治初年に至り、原田宮司の上申書(第六十号五冊の内・『旧徳山藩神社明細帳』社寺掛)が初見であって単なる創作にすぎない。
後述するが、神職の職名である宮司や鳥居・神楽・上宮・中宮等の存在は、歴史的経過の中で、神道等他宗の影響を受けたものであろうが、一種の日本的発展・土着化によるものと解したい。蓋し如何なる宗教と雖ども千年に亘る時代経過の中で、他宗と無縁の発展はないからである。一つの例を挙げよう。先に述べたように、我国に於ける古い時代の神祭は、その折り必要な施設を設け、現在のような恒久的神社建築は、なかったようである。神社が恒久的社殿や神像を造りはじめたのは、ほぼ飛鳥時代以降のことで、仏教寺院の影響を受けたものと考えられている。又神像は仏像の、家庭内の神棚は、仏壇の影響によって普及したものである。このように長い歳月の間に影響し融合し乍ら日本化的発展をとげたのは、すべての宗教に於いて言えることであって、このことをもって習合形態と称するには当らない。
空海が真言密教を伝えたのは、大同元年(八〇六)であって、『旧記』に誤りなきとすれば、鷲頭山遷宮から百九十七年を経過している。高野山を開いたのは、これより十年後の弘仁七年(八一六)のことである。百済伝来の異国的儀式修法は、仏教のほか他宗の影響を受け、更に降って密教による妙見菩薩を本尊とする奉祀形態に、変貌をとげることとなる。即ち明確な教団を有する真言支配のはじまりである。
周知の如く真言密教は、大日経・金剛頂経を根本聖典としその儀式・奥義を公開せず、加持祈祷によりその性格は、著しく呪術的である。かかる密教の基本的性格と、北辰信仰の修法が極めて親近な一面を有していたのであろう。この密教による妙見一山の支配は、やがて明治三年妙見山に御指図による神祭仰付まで続くのである。
(註一)『下松地方史研究』第十九輯 宝城興仁
(註二)鷲頭庄の初見は、後世鎌倉初期の『仁和寺諸堂記』である。
(註三)『下松市史』平成元年も同様に『多々良氏譜牒』の原型を下松妙見社に伝わる縁起に求めている。私はこの見解に賛成である。