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(四) 『大内多々良氏譜牒』と下松

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 再び『大内氏譜牒』に注目したい。縁起は、一山繁栄期の創作が多いという。この『譜牒』は、大内政弘により、文明十八年(一四八六)に作成されたものである。而してその目的は、一般には上祖を百済の第三王子とすることで外には朝鮮李朝との交易を有利にすることにあったとされるが、私は他に一ついずれの系譜もそうであるように、内に始祖を美化する重要な意図があったと考えている。然るにその目的を達成するためには、その説話が一般に受容されることが、絶対の条件であることは言うまでもない。
 『譜牒』は冒頭に於いて、次の如く記している。即ち
   推古天皇御宇十七年己巳周防國都濃郡鷲頭庄青柳浦有大星、留在松樹之上而七昼夜赫々不絶(以下略)
 推古天皇の十七年(六〇九)に大星が降臨したことを記すものであるが、降臨の地を記すにあたって、「周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦」(但し鷲頭庄は後の庄名)とまで明確に地名を示したことは、推古天皇の十七年は別としても、この地方に古くから妙見信仰が存在し、そのような降臨伝説が古くからあったに相違ない。「大星の降臨」とは、天体・隕石の落下ではなく渡来人による青柳の浦への突然の「星信仰の伝播」を神話化したのであろうし「赫々と耀いた」とは異邦人の祭祀・信仰が異彩を放ち盛大となったことを強調したものであろうと私は考えている。熊本県八代市球磨川口とともに下松への北辰信仰の早期の伝来は史実であって、この一件と琳聖を結び付けたのが、大内氏譜牒である。即ち大内政弘は、家系の伝統的名望と権威により、主宰者を位置づけ、地方統括の実をあげ、併せて李朝との交易の盛大を願ったものであろう。
 これらの『旧記』や『譜牒』に於ける記述は、右に指摘したように神話(説話)化された部分が多く勿論すべてを史実とは認めがたいが、古来降松の地は、瀬戸内海に面し朝鮮半島との交流に於いて重要な位置にあったとされ、北辰信仰を持つ一群の百済系渡来人が往来し人々は、百済律(のち下松)と称することになったと推考される。
 琳聖太子が歴史に登場するのは、応永十一年(一四〇四)大内教弘が氷上山興隆寺本堂の落慶供養の願文に於けるものであって、学説上は、先に記したように仮空の人物ともされている。したがって琳聖説には、再考の余地をのこすが、下松地方への古くからの妙見(北辰)思想の存在は、疑う余地がなく、このことを承知の上で大内氏は、右のような『譜牒』を作成したと思われる。
 而して大内氏は『譜牒』に於いて「琳聖太子来朝」をもって自己の先祖として、領主大内氏への尊貴の念を期待し、又「青柳の浦に北辰天降り」として半島からの北辰信仰の移入を潤色したものと思われる。又前述のように半島渡来人による北辰信仰の移入を降臨伝説として里人は伝承したのではないであろうか。このことは、北辰信仰が、半島即ち百済を経由しての伝来であることを示すものである。かかる古い縁起に史実を追究することは、困難としても、降臨の地を「青柳の浦」と明記したことは、それを受容するだけの歴史的地盤即ち妙見信仰や降臨伝説が、早くから下松に存在していたと見て大きい誤りはなかろう。大内氏は、水の存在をたしかめて魚(『譜牒』)を放ったのである。