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(五) 大内氏・毛利氏と妙見社の沿革

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 大内氏と妙見信仰の関係を一瞥して置きたい。上祖を百済の渡来人と自称する大内氏は、はやくから妙見信仰という特徴ある信仰をもっていた。妙見信仰は、北辰を中心にして自らは動じず衆星四面をしたがえる姿に、尊貴の念を求めたものであろう。権力の座にある者の最も魅力とする点であるが、背後に教団を有するまでには至らなかった。かかる思想を有する渡来人の下松地方への定着、一族の強大化、氏神としての妙見信仰、社殿の建立その主宰者こそのちの大内氏であった。『譜牒』では、茂村の代に氷上山へ北辰尊星を勧請し、又『旧記』には義弘の代明徳二年(北・一三九一)に、鷲頭山へ仁王門・五重塔を奉納したことを述べている。これらは、いずれも慶長十三年(一六〇八)一山の火災により焼失したが、『寺社由来』寛保元年(一七四一)では「築石計有之」として火災後も礎石が健在であることを藩へ上申した記録がある。又社坊の礎石もあちこちに存在していたらしく、明治四十五年・大正八年の中宮公園創設の際取りのぞかれたという複数の証言がある。公園に使用した石は和歌水(若水)の浴の亀池の少し上の岩と社坊跡の石であるという。
 鷲頭山を主峰とする妙見社が、大内一門の守護神を祀る霊地であり、その崇敬ただならぬものがあったことは、文献の示すところである。即ち大内政弘は、一門の分国法たる『大内家壁書』応仁元年(一四六七)四月二日に於いて、聖地妙見山一帯に於ける士・庶の狩猟を禁じているほか『正任記』文明十年(一四七九)十月三日の條では、同族に於いて鷲頭妙見山下宮の造営にあたらせたことを記している。即ち下松の領主鷲頭氏が滅亡後も妙見社を一族の聖地として、守護したことが明確である。
 降って弘治元年(一五五五)十月陶晴賢自害の翌年四月十八日には、毛利の軍が鷲頭庄に入り翌十九日には、妙見山(註一)等で戦闘を行っているが、この戦いのわずか六年後の永禄四年(一五六一)九月十二日の棟札には、毛利元就は、鷲頭妙見山の護持大壇那と記されている。つまり大内氏から毛利氏への守護移行は、間を入れなかったと見てよいであろう。又この棟札は、永禄四年に四坊、同十二年棟札には七坊に発展したことを示している。(註二)
 問題は、慶長十三年(一六〇八)二月六日の妙見山の火災である。元和三年(一六一七)四月二十八日の『防州都濃郡河内村打渡坪付帳』妙見給の項に
  めうけん山古屋敷
  寺敷七ケ所跡荒所 妙見山
と記され、又現在の仁王門のほぼ西方一km余り、字吉原谷近くの山林に「焼尾」と称する地名がある。これらはいずれも慶長十三年の大火災を意味するものであろう。(註三)
 七坊は焼失後旧地に再建されることなく、このうち別当鷲頭寺と赤坂に在った下宮が吉原の里へ遷座造営され、後者はその後若宮と称している。里への別当の遷座については、『旧記』には、年号不知也と記されて、その詳細は明確でないが、いずれ社坊制・山岳信仰の衰退を思わせるものがある。鷲頭寺の規模は、時代の流れを考慮しても相当なもので、毛利氏の強力な守護によるものであろう。即ち妙見社は『八箇国御時代分限帳』天正末~文禄初(一五八〇年代)には、総知行高九〇石を都濃郡内に有し、又『寺社由来』寛保元年九月十八日鷲頭寺の上申書には、「御祭礼御幸の事」として、
  「御領主御代参有之、当日祭礼奉行役被差出御幸相成候、導師別当供僧供奉行烈於中休有
  奉幣、然て於旅殿導師奉幣白(帛)、勤行終於脇殿神主神楽相勤候事やふさめ有、終還幸の事」
としている。
 このように士・庶の旺盛な妙見信仰により、妙見社は、明治維新に至るまで、その後大きい変革はなく、鷲頭山上の上宮、中宮、麓の下宮(若宮)はすべて別当鷲頭寺によって統括・運営されたのである。妙見山一山の悲運は、実に明治政府の神道国教化政策の断行にあった。
  (註一)『萩藩閥閲録』内藤肥後彦太郎藤時軍忠状
   同 『下松地方史研究』第三十輯 拙稿、ここに妙見山とは、妙見社でないことに注意されたい。
  (註二)『防長地名淵鑑』御薗生翁甫著(二六二頁)には七坊の名が永禄四年同十二年の棟札に見える旨記されているが永禄四年棟札は四坊のみである。
  (註三)『下松地方史研究』第二十六輯 拙稿