氷上山興隆寺絵図 左下に亀池あり
氷上山興隆寺境内絵図(左に亀池)
大内氏の強い妙見信仰を証す史料として、『大内家壁書』には鷲頭妙見山一帯の狩猟禁制(一六条)と氷上山興隆寺周辺の狩猟禁制(二八条)があるが、他に鷹狩り用の鷹を飼育する餌として、亀や蛇を用いることを禁止した次の如き壁書(一二四条)にも注目すべきであろう。
鷹餌鼈亀禁制事
為鷹餌不可用鼈亀并蛇也、既為氷上山仕者儼然之処、不存其憚之族、忽神罰不可遁也、於自今以後、堅固所加制止也、鳥屋飼以下之時、以禽獣計可飼、不飼得者、鷹不可所持也、若猶背此禁制、有求鼈亀之族者、至侍者可被収公恩給地也、無所帯者則可被逐放也、至凡下之輩者、随見出聞出、即時於其場、或留置其身、或随事之体、可誅戮之由、所被仰出也、壁書如件、
長享元年(一四八七)九月四日
右の条文は、すっぽん・亀・蛇を氷上山の神の仕者であるとし、違反の家臣は所領没収、庶民は死罪をも含む重い処罰を明示したものである。下松妙見山の狩猟禁制が応仁元年(一四六七)であるからその二十年後の公布である。
大内氏の守護神である妙見菩薩は、北辰の化身であり、その像は亀に乗っている。北方の守護神は玄武であるからここに玄武崇敬が生れたのであろう。北方玄武は亀に蛇が巻きついた形容である。このような理由から亀と蛇を神格化して右のような壁書に及んだものと思われる。大内氏が政弘(二十九代)義興(三十代)義隆(三十一代)の三代にわたり幼名を亀童丸と称したのもかかる形容と共通の認識によるものであろう。
奈良県明日香村(国特別史跡) キトラ古墳(北壁の玄武) 七世紀末~八世紀初(毎日新聞)
妙見尊は亀に蛇が巻きついた玄武像に座している
右に蛇、左に亀が描かれている(鷲頭寺蔵)
さてそこで下松の妙見山に於ける亀との関係を述べておきたい。古い史料が遺存せず残念であるが、妙見山の中宮より東南へ三丁余の処に和歌水(最近は若水・本誌十二章の地名図参照)と称する浴がある。この浴には亀池又は白亀の池と称する大中小三つの池(写真参照)があり最も上の池泉は神事の際宮司が仏に供える清水を汲む閼伽井として使用していた。(文化五年の『絹本淡彩妙見社参詣図』には和歌水浴御供泉と記している)この井は浴の源流に位置するもので広くこの下流を現在も字赤井谷と称しているが勿論赤井は閼伽井の転訛したものである。
妙見山若水 白亀池(上) 藩政時代閼伽井の水はこの池より汲んでいた。
(但し枠石は明治以降・上部に瓦茸の屋根があり、枠石には木の蓋があったが現在はない)
妙見山若水 白亀池(中)
妙見山若水 白亀池(下・涸)
妙見山鷲頭寺亀池
又中宮より和歌水(亀池)に至る石段横に小さな道標がある。
前面 奉寄進中宮社
側面 和歌水浴
白亀池マテ三丁
願主 なるかふ村 夘年女
裏面 文化八未年依霊
夢而八月四日 三輪村ヨリ送也
と判読される。
白亀池を示す道標(文化八年)
『鷲頭山旧記』天正三年には、和歌水の由来について
大内正恒鷲頭山上宮中宮御再建有
之御建立之節有参籠山中水因乏
至東之渓被詠和歌即清水因湧出
而云和歌水浴也
として由来を記しているが、亀池の事にはふれていない。又別当惠實は
右の『旧記』の後部に
妙見川之白亀出現
文化八辛未八月四日 出現記一巻
外有之
と追筆している。現在鷲頭寺本堂に白亀の甲羅が保存されている(『妙見さま』杉原孝俊住職著)。又鷲頭寺は明治十二年中市へ移転の際も境内に立派な亀池を築いており勿論これは旧地妙見山の亀池を踏襲したものである。ここには氷上山と共通する認識があり、かつ亀池の起源が文献上明確でないが、中世以来の玄武崇拝の伝統であることに間違いはないであろう。灯籠や敷石は別にして池そのものは、鷲頭山に於ける妙見信仰中おそらく最古の遺構であろう。
和歌水の浴白亀池の図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
妙見山鷲頭寺境内図(部分) 『山口県社寺名勝図録』 明治三十年十二月 大阪大成館
中央 亀池 但し現在は本堂の西に移築されている。
同上 下松妙見山若水 白亀池 大阪大成館 明治三十年十二月