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(七) 棟札による共同奉祀形態の検討

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 いずれの宗教も同様であるが、数世紀を経過するうち地理的、政治的又は風土上の影響を受けながら、所謂宗教の変貌・融合・土着化の傾向を示すことは、妙見信仰とてその例外ではない。
 繰り返し述べるように、妙見思想は、半島から上陸したもので、初期にあっては、多分に陰陽道的・呪術的な性格を有したとも考えられるが、中世末期には、妙見菩薩を中心に祀り、真言による一山支配が文献上(永禄四年棟札)明確である。私はこの永禄四年(一五六一)の棟札が一山密教支配の初見史料として、極めて重要な位置を有するものと考えている。
 しかし中世以前は、おそらく星殿的性格にあわせて、領主の道教的守護神としての性格が強く、又近世に至るも一部に北辰的伝統は踏襲され、更には、神道等他宗の影響も受けたであろう。具体的には、中宮が「社」と「拝殿」の二棟(『寺社由来』)からなること、一山には、鳥居が存在し、上宮・中宮更には宮司等の神職名が使用され、この上宮・中宮・下宮は傍の宮司坊によって奉祀運営されていたこと等が挙げられる。又『旧記』に於ける「防州鷲頭寺上宮御本地虚空蔵奉造立開眼」は、神社への本地安置を思わせる。永禄四年には四坊、同十二年には七坊を有し、一山の経営が宮司坊の支配下にあったことも事実である。而してこれを単純に社坊の神社支配とすれば、神仏分離令により神社から仏教色を排除すべきは当然である。
 さて神仏混淆を思わせる伝統的一面を有していることを指摘したので、これらのうち主たるものを取りあげ今少し検討してみよう。
 まず建造物について、中宮・若宮の拝殿・幣殿・釣屋・本殿に至る現在の配置は、いずれも降松神社に移行してからの改築である。江戸時代には、上宮・若宮は一棟のみであるが、主要な勤行式をとり行った中宮は拝殿と社の二棟からなり、この間に長さ二間の釣屋が在ったことが『寺社由来』から明らかである。かかる中宮の社殿配置は、神道の影響も考えられるが、真言支配以前即ち星堂時代からの踏襲ではないであろうか。

降松神社 仁王門・上宮・中宮・若宮 『氏神だより』


降松神社 上宮社殿 『氏神だより』


鳥居前方より上宮を望む


降松神社 中宮社殿 『氏神だより』

 次に石鳥居について見てゆきたい。妙見社参道(馬場)には、市内最古の鳥居(昭和六十年転倒)があり、中央額束には、妙見山なる仏語をもって一山を示し、向って左の柱には、
  延寳七己未暦首夏十月八日
  鷲頭寺現住権大僧都法印増遍謹教化焉者也
の刻銘がある。即ち延宝七年(一六七九)には、一山が鷲頭寺による統轄下にあることを示し、宮司増遍は、真言僧で権大僧都法印の地位にあったことも明らかである。
 次に永禄四年(一五六一)、同十二年(一五六九)、享保二年(一七一七)の棟札を掲げよう。(註一)

永禄四年(一五六一)棟札 (鷲頭寺蔵) 同札写


永禄十二年(一五六九)棟札 (鷲頭寺蔵) 同札写


享保二年(一七一七)棟札 (鷲頭寺蔵) 同札写

 これらの棟札は、いずれも小さなものであるが、平成の現在も実物が鷲頭寺に現存すること、永禄年間の二枚は既に天正三年(一五七五)宮司源嘉在判の『鷲頭山旧記』にこれを収録していること、寛保元年(一七四一)には、同様鷲頭寺現住祖海が藩に書写提出(『寺社由来』)していること、更に藩御内用掛の永田政純を主任として元文三年(一七三八)着手、寛保五年(一七四一)頃完成した毛利家の官選書である『新裁軍記』にも、棟札の一部が引用されている。(註二)このように下松市にとって極めて歴史的価値の高い棟札であり、妙見山に関する中世の遺存史料でもある。文化財の指定がなされていないことが、私には不思議でならない。
 さて永禄十二年の棟札中央には、「奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇」と記されている。上宮とはいかにも神社を思わせるが、この場合鷲頭寺上宮とは、例えば法隆寺金堂と同様上宮が鷲頭寺の一堂宇であることを示していて、本尊として虚空蔵菩薩を安置していること前述の通りである。
 他に一つここで重要なことは、御遷宮導師宮司権少僧都源嘉と記されていることである。宮司とは、神職の職名であるが、上宮の遷宮導師を宮司の権少僧都源嘉が行っている。即ち、妙見社の宮司は、真言の出家僧なのである。勿論遷宮導師として、密教の諸作法により、これを行ったであろう。後述するが、室町末期既にかかる重要儀式に神主の存在が認められないことに注意を願いたい。この関係は、享保二年(一七一七)棟札も同様であって、神仏分離の明治三年まで続いている。又若宮参道横の井戸垣石(天保十二年)には、発起宮司惠深と刻銘されているが、惠深は鷲頭寺中興九世で権大僧都法印(安政二年寂)である。

若宮社参道横井戸垣石 天保十二(一九七八) 発起宮司惠深の刻銘がある。

 神仏分離の大義を、社僧(別当)が宮司よりも管理・運営に於いて、実権を握ることは、両者の間に物議をひき起こす要因となり、その関係を「旧来社人僧侶不相善永炭之如く候」(明治二年五月二十七日・政府社寺局)とされるが、妙見社にあっては、中世以来宮司と別当は、同一人物なのである。同一人でどうして紛議を生ずるであろうか。いや一山が既に密教支配、即ち真言寺院としての性格を有していたのである。
 花岡八幡宮が神を祀り、神官(大宮司)と僧侶(別当・地蔵院)の共同による神前勤式(註三)であったのに対し、妙見社は、ご本尊を安置し、既に中世末僧侶(別当)が真言の儀式作法に基づき、読経をもって仏前勤行にあたったのである。
 他に妙見社には、神主の存在も明らかであるが、前掲『寺社由来』に「勤行終於脇殿神主神楽相勤候事」とされ、神主は直接妙見中宮に於いては、神楽をもって「神主役」とし「御かくら代銀子被遺候」(『寺社由来』神主原田市正、上申)と記されている。つまり社殿勤行に於いて、僧侶と神官の同座はなく、神主役の神楽に対しては、銀子を遣わされている。つまり雇われなのである。神主は江戸末期には、村内十三ケ所の妙見社抱社の祭祀をするほか平常さまざまな村民の祈願を任務とされたのである。宮司(社僧)と神主の任務は二分されて極めて明確であった。これら抱社に私の調査では、江戸時代の棟札・供養札が五枚遺存しているが、抱社の社殿再建等には、いずれも原田神主のみが墨書されている。他方一山をなす前掲上宮・中宮の棟札永禄四年(一五六一)、永禄十二年(一五六九)、享保二年(一七一七)の各棟札又石造物にも、神主の銘は全く不在である。このことは、かかる重大儀式にすら神主が、中宮社殿に同座する慣のなかったことを証するものである。神・仏混淆か否かを問う場合、最も重要なことは、言うまでもなく祀られた祭神と社殿に於ける奉祠形態であろう。

左の棟札は妙見社の抱社である祇園社の再建にかかるものであるが、
神主原田信濃介とされるのみで別当(宮司)は記されていない。

 妙見社における別当僧と社坊僧即ち、真言僧と藩主名代・庄屋による勤行形態が、いつ頃から成立したかは、明らかでないが右のように、既に中世末永禄四年の棟札にその姿を認めることが出来る。妙見山に於いては、花岡八幡宮のような神官・僧侶の共同奉祀形態はなかったのである。永禄十二年七坊を有していたことは明らかであるが、神仏分離の目的を「社坊による神社支配」の廃止としてよければ、まず神社の存在をたずねるべきであろうが妙見社には日本固有の神も又神主も不在である。仏像を祀り真言僧による勤行が何故神仏習合であろうか。
 下松市内では、妙見社の他に松尾八幡宮・花岡八幡宮も社坊を有していた。松尾八幡宮の社坊である多聞院境内の宝篋印塔には、塔身に
  文化十四丁丑天七月吉祥日
  多門院現住惠賢
  神主金藤由喜
として神主・社僧が記されており、又花岡八幡宮の多数の修覆棟札の内、一枚だけを抄録すれば、
  奉重修覆防州都濃郡華岡八幡宮
    干時元禄十三庚辰六月吉祥日
      執政
       佐世主殿源広久
      郡吏
       坂九郎左衛門匡澄
      社務
       地蔵院秀雄堯円
       閼伽井坊慶音良長
      社司村上兵庫助藤原基重
と記されていて、両宮とも一山に於ける神官・僧侶の共同運営の姿を見ることができる。花岡八幡宮に於ける地蔵院は、妙見社と鷲頭寺の関係であって、ともに別当ではあるが、右のように、大きい差異が認められる。妙見社は特異な一面を有していたのである。
 (註一)
    この棟札は「鷲頭寺」の初見として貴重である。
    永禄四年(一五六一)の棟札は中央に「奉新造防州都濃郡鷲頭妙見山神輿三丁」と記し左に宮司坊源嘉と記していて四坊の中に鷲頭寺の名称は存在しない。別当は単に宮司坊と称していたようである。しかし永禄十二年(一五六九)前掲の棟札は、妙見山鷲頭寺としてかかる寺院の存在を明確にしている。したがってこの間(一五六一~一五六九)に鷲頭寺と改号されたのであろうか。尚これが旧領主鷲頭氏の菩提を念頭に入れたものと推測されることは度々述べる通りである。
 (註二)
    『新裁軍記』(巻十八・永禄五年十二月十八日の項)には
    「防州都濃郡妙見山鷲頭寺上宮永禄十二年ノ棟札ニ、毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就、大庭加賀守賢兼(略)按云、元就公従四位上ニ除シ玉フコト諸軍記ニ不載御家諸ニ挙ルコト詳ナリ」(以下略)
    と記している。
 (註三)『神爾代々記録』花岡八幡宮蔵・『下松市史』(通史編・平成元年)