『藩史』(河合裕)の内、妙見社の神仏分離に関する部分を抜粋しよう。
一明治三年庚午九月四日妙見尊体神仏之義朝廷江御伺出相成、御指図之旨を以来ル十日より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除、
一同年九月七日妙見社号降松神社ト改号成
明治三年九月四日妙見尊体之義について、朝廷へ御伺の結果、神祭を仰付けられたというのである。ここには、その根拠が不明であるが、一説に「天之御中主尊は、仏教の北辰と一致し、民間信仰にあっては、妙見信仰を生んだ。諸国に見ゆる妙見社は、この神を祀ったものである」とするが、この説は外来神(蕃神)たる妙見神を日本固有の民族宗教である天之御中主尊に意図的にすり替えたものである。『藩史』を編纂した河合裕は、藩政の枢機に参じ、嘉永二年(一八四九)まで寺社奉行の役にあった。勿論外来神たる北辰(妙見)やその後の仏教との習合による妙見尊と、新しく日本固有の神(天之御中主尊)を祀る神社との相違は、充分承知していたはずである。だが、維新政府への気兼から前掲の如き「妙見社号降松神社ト改号成」の旧藩記録をそのまま編纂したものであろう。
幕末の平田篤胤の復古神道は、仏教排斥に積極的であった。やがて維新政府に多数登用されるに及び神道国教化政策の一環として、妙見社は神祭を仰付けられたのである。即ち降松妙見社については、神仏分離を逸脱した行為であって、通説のように「神仏分離」でも「社号改号」でもなく、「神道国教化政策」による「仏教排斥」「廃仏帰神」である。結果は「神仏入替」であり、鷲頭寺から一山の「祭祀運営権の剥奪」に終結した。
北辰思想移入以来仏教との習合による妙見菩薩又、真言支配による妙見社の実体について、本章の冒頭に述べた如く「神仏混淆」の範疇とすべきか、再検討する必要がありそうである。