『都濃郡誌』(山口県都濃郡役所・大正十三年)五三頁
「大内弘世に至り中の坊、宮の坊、寳樹坊、寳積坊、寳永坊、寳泉坊、別當閼伽井坊の七坊を建立(以下略)」
『久保村郷土誌』(久保村教育会・昭和十一年十月)二〇七頁
「大内弘世の時にいたって下宮を麓赤坂に立て中の坊、宮の坊、寳樹坊、寳積坊、寳藏坊、寳泉坊、別當閼伽井坊、宮司坊の七坊を建立したり」
『大下松大観』(防長民報社・昭和十三年)一四頁
「十七代(大内)弘世の時、下宮を鷲頭山麓赤坂に建立し、また中之坊・宮之坊・寳樹坊、寳積坊、寳蔵坊、寳泉坊、閼伽井坊(後改宮司坊)の七坊を建立し(以下略)」
尚、『下松市史』(平成元年)一〇六四頁「年表」に右文の引用あり
『防長風土記』(野村春畝・昭和三十二年)四〇四頁
「大内弘世に至り中の坊、宮の坊、宝樹坊、宝積坊、宝永坊、宝泉坊、別当閼伽井坊の七坊を建立(以下略)」
『山口県神社誌』(山口県神社庁・昭和四十七年)九五頁
「康保六年秋鷲頭山に上宮中宮を造宮、大内弘世七坊を建立、仝義弘五重塔・仁王門建立(以下略)」
『山口県の歴史散歩』(山口県社会科教育研究会・一九七四)六九頁
「大内弘世の代になって、中の坊・宮の坊・宝樹坊・宝積坊、宝永坊、宝泉坊、別当閼伽井坊の七坊が建立された。」
『下松地方史研究』(第十九輯・宝城興仁・昭和五十七年)四五頁
「大内茂村のとき妙見社を大内村氷上へ勧請された。ついで大内弘世(一三五二~一三八〇)の時に、七坊を鷲頭山に御建立になった。七坊は中之坊・宮之坊・宝樹坊・宝積坊・宝蔵坊・宝泉坊・別当閼伽井坊、別名宮司坊という。この七坊御建立は、弘世が白坂山で大内長弘・貞弘を破った後である。」
『下松市の石造文化財』(下松市教育委員会・昭和五十六年)一〇〇頁
「正平十年(一三五五)大内弘世は、鷲頭山妙見社に、社坊閼伽井坊、中ノ坊、宮ノ坊、宝樹坊、宝積坊、宝藏坊、宝泉坊の七坊を建立し、閼伽井坊は別当で後に宮司坊と改まりのち更に鷲頭寺と改めた。」

七坊跡・中宮公園を造るまでは坊の礎石があちこちに在ったと伝えている。

社坊跡・地名からすれば、宝樹坊跡であろうか。

別当閼伽井坊(鷲頭寺)跡地

別当閼伽井坊(現鷲頭寺)跡より下松湾方面を望む。中央の屋根は仁王門。

別当閼伽井坊跡
このように七坊の建立を大内弘世の代とし、坊名まで明らかにされているが、いずれも永禄十二年(一五六九)に権小僧都源嘉の記せる「奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇」の棟札の社坊名を次々と写したものである。この棟札にはほぼ右のような七坊が記されてはいるが、残念ながら永禄十二年は、防長二州が毛利の有となった(大内義長が長府の長福寺に入り自殺した)弘治三年(一五五七)四月より十二年も後である。

妙見山中宮周辺 永禄十二年(一五六九)頃の想定図・部分『都濃郡河内村明治二十年地誌』
大内氏が一門の守護神を妙見山に祀り、崇敬ただならぬものがあったことは、本論冒頭にも述べたが、妙見山に七坊が大内弘世時代に成立したことについては、遺憾ながら傍証的史料すら存在していないのである。前の章で述べた如く、社坊に関する史料で現在遺存する中世史料は、永禄四年と右の永禄十二年の棟札のみであって、この二枚の棟札は、妙見山研究に於ける第一級の基本史料として注目すべきものである。小さな棟札ではあるが、既に天正三年(一五七五)の『鷲頭山旧記』に書写されていること、又寛保元年(一七四一)には『寺社由来』に収録されていること、更に毛利家の官撰書である『新裁軍記』(元文三年・一七三八着手)にも棟札の一部が引用されていて極めて信憑性の高いものである。(以上棟札については、「妙見山創建と神仏分離説再考」の章を参照されたい)
二枚の棟札を比較検討すれば、容易に大内氏の七坊建立説を否定することが可能である。即ち、注目すべきは、前掲永禄四年(一五六一)九月十三日の棟札であってこの「奉造立妙見山神輿三丁」新造の棟札には、宮之坊・宮司坊・寳積坊・寳樹坊の四坊しか記されていない。七坊に発展するのは、これより更に八年後の永禄十二年(一五六九)十二月十五日付の「鷲頭寺上宮御社檀一宇」造立の棟札が初見である。即ち毛利元就が下松に侵攻したのは、弘治二年(一五五六)であるから、これより五年後の永禄四年(一五六一)には未だ四坊であったことが明らかである。
又大内弘世(一三五二~一三八〇)の時代に一旦造立された七坊が、永禄四年(一五六一)に四坊に衰退したとも考えられるがかかる時代背景は何ら見当らない。七坊の成立は、通説とされる大内時代ではなく、毛利時代に至ってのことであろう。弘世の七坊建立説は、後世に至って、下松妙見山と大内氏の関係を誇張し伝えた単なる言説にすぎない。平成の今日に至るも先に紹介した如く、かかる伝承をあたかも史実のようにこぞって掲載することはいかがであろう。弘世時代における七坊の存在は極めて可能性が低いのである。他の項で述べるつもりであるが、妙見山は毛利の庇護を受け新勢力を背景として再度の繁栄期を迎えたことが、諸史料から明らかである。(註一)
毛利時代に至って成立した七坊は、その後慶長十三年(一六〇八)二月六日の妙見山大火災によって終焉をつげるが再びこの地に再建されることはなかった。
(註一)妙見山は、毛利『八箇国御時代分限帳』(一五八〇年代)には九〇石を有している。