次に下宮について述べよう。下宮赤坂の歴史は古く、『正任記』文明十年(一四七八)十月三日の条に
「一同國(周防)余利鷲頭治部少輔弘賢注進状、子息總次郎四郎護賢持二参一之鷲頭妙見山下宮上葺造華事也、彼御造営依レ被二仰付一各可レ有二在國一之由御下向之時被二仰出一之處、早速修造殊両人参陣御感也、仍対二弘賢一被レ成二御書一了」(『防長地名淵鑑』)
と記され鷲頭一族は、正平七年(一三五二)白坂山、高鹿垣の戦いを経て既に宗家の大内弘世に屈服後も、他方一門をもって鷲頭妙見山に奉仕をつづけたものらしく、これは下宮に関する史料の初見である。鷲頭氏の系図は次の通りであるが、右の弘賢は南北朝の戦い即ち周防守護長弘から五代あとの嫡流である。
下宮跡より下松方面を望む
妙見山下宮旧跡(赤坂の宮跡)
鷲頭氏系図 (右の内北を付した弘直・貞弘は南北朝の戦いで北朝守護長弘に属した)
『鷲頭山旧記』は後世文化年間に至り、中興六世法印惠実により追録されている。即ち、
「元和年中之頃徳山領主毛利前日向守就隆公赤坂之移宮今之若宮社也年号不知也」
とするのが同記に於ける下宮移転に関する具体的記載のはじめである。妙見山が大内氏滅亡の後、毛利の庇護を受けたことは、『八箇国御時代分限帳』(天正末~文禄初)や、右に記した永禄四年(一五六一)、同十二年(一五六九)の棟札により明確である。かかる新勢力を背景として、下宮赤坂の宮が遷宮され、吉原の地へ大規模に造築されたとしても、あまり無理な推測ではなかろう。(註一)
下宮跡地(赤坂)には明治四十五年中宮公園の記念碑が建立されている。
同中宮公園(拡張)記念碑・大正八年建立
その移転年代については『鷲頭山旧記』に記されているように、元和年中(一六一五~一六二三)の頃とすれば、慶長十三年二月六日(一六〇八)の妙見社の大火災後のことであっておそらく再建とあわせて吉原の里へ遷座したものであろう。
(註一)妙見社神主の原田家には原田隼人重延の頃で、「元亀二年(一五七一)春河内村吉原に若宮新築」とされているが事実とすれば、わずか四年後に記された『旧記』に収録されていないなど不自然な点が多い。
「一同國(周防)余利鷲頭治部少輔弘賢注進状、子息總次郎四郎護賢持二参一之鷲頭妙見山下宮上葺造華事也、彼御造営依レ被二仰付一各可レ有二在國一之由御下向之時被二仰出一之處、早速修造殊両人参陣御感也、仍対二弘賢一被レ成二御書一了」(『防長地名淵鑑』)
と記され鷲頭一族は、正平七年(一三五二)白坂山、高鹿垣の戦いを経て既に宗家の大内弘世に屈服後も、他方一門をもって鷲頭妙見山に奉仕をつづけたものらしく、これは下宮に関する史料の初見である。鷲頭氏の系図は次の通りであるが、右の弘賢は南北朝の戦い即ち周防守護長弘から五代あとの嫡流である。
下宮跡より下松方面を望む
妙見山下宮旧跡(赤坂の宮跡)
鷲頭氏系図 (右の内北を付した弘直・貞弘は南北朝の戦いで北朝守護長弘に属した)
『鷲頭山旧記』は後世文化年間に至り、中興六世法印惠実により追録されている。即ち、
「元和年中之頃徳山領主毛利前日向守就隆公赤坂之移宮今之若宮社也年号不知也」
とするのが同記に於ける下宮移転に関する具体的記載のはじめである。妙見山が大内氏滅亡の後、毛利の庇護を受けたことは、『八箇国御時代分限帳』(天正末~文禄初)や、右に記した永禄四年(一五六一)、同十二年(一五六九)の棟札により明確である。かかる新勢力を背景として、下宮赤坂の宮が遷宮され、吉原の地へ大規模に造築されたとしても、あまり無理な推測ではなかろう。(註一)
下宮跡地(赤坂)には明治四十五年中宮公園の記念碑が建立されている。
同中宮公園(拡張)記念碑・大正八年建立
その移転年代については『鷲頭山旧記』に記されているように、元和年中(一六一五~一六二三)の頃とすれば、慶長十三年二月六日(一六〇八)の妙見社の大火災後のことであっておそらく再建とあわせて吉原の里へ遷座したものであろう。
(註一)妙見社神主の原田家には原田隼人重延の頃で、「元亀二年(一五七一)春河内村吉原に若宮新築」とされているが事実とすれば、わずか四年後に記された『旧記』に収録されていないなど不自然な点が多い。