『降松神社由緒書』にも元和年中の遷座説を収録しているが、勿論これは右の『鷲頭山旧記』によるものであろう。ともかく赤坂の地から吉原へ下宮を遷座したことは、史料に明らかである。赤坂に在る下宮を吉原へ新しく遷したのち、一般には若宮と称されることになったものである。
では下宮のあった赤坂の地は、いずれに比定されるべきであろうか。「赤坂」の地名は既に消滅して久しく、下宮旧跡の伝承は存在せず全く不明とされて今日に至っている。だが幸いなことに文化五年(一八〇八)法眼信喬の作にかかる妙見山鷲頭寺所蔵『絹本淡彩妙見社参詣圖』(昭和六十一年、下松市文化財指定)には上宮・中宮・若宮・鷲頭寺の他に七坊之跡・赤坂・桂木山・和歌水浴御供泉・高鹿垣、御手洗川、等妙見社草創期以来の由緒の地がそれぞれ記入されている。これらの中に、「赤坂」の地名をあえて明記したのは、勿論元和年中の頃、毛利就隆によって吉原の地へ遷座されたとする下宮赤坂の宮の旧跡を示すためである。
さて右の妙見社参詣図に示された赤坂の位置は、仁王門に向かって右側前方で、そこにはかなりの老松と露出した岩肌らしきものが描かれている。赤坂の地名の由来を意識して表現したものであろう。仁王門に向かって参道の右側で、人工により削平された平坦地はわずか一ケ所のみで、比較的容易にこの地を確認することが可能である。位置は仁王門より北西へ三四〇mの地に、東西六・七間、四〇坪程の平坦地でやや小高い丘陵地である。史料に欠けるが、その遺構は現在の上宮程度と考えればよいであろう。この地が下宮赤坂の宮の旧跡であることは『絹本淡彩妙見社参詣圖』から考証して確実である。
この『妙見社参詣図』には前述の如く、松の老樹が描かれているが、これは聖域として、吉原へ遷座後も伐採を遠慮したためであろう。これらの老松はつい最近まで存在し、夏は日陰を、冬は木もれ日を楽しませてくれたが、マツクイ虫のため最近伐採された。
この赤坂の宮跡地には、明治四十五年四月中宮公園記念碑(基礎幅四尺一寸、同奥行三尺九寸、総高一間五尺二寸)が建立されたが、赤茶けた小丘は今日に至るも優美な景観を見せ、参拝者の休憩所として時折利用されている。