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(五) 妙見山と地名

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 やや余談になるが、「赤坂」のついでに、妙見山一帯の地名について、若干の考察をしておきたい。
 第二図は上宮(鷲頭山頂)から下宮(赤坂)までの妙見山一帯の地名を図示したものである。地名調査の場合、普通明治二十年の地籍図が便利であるが、山林は当時調査の対象とされていない。河内村に関するかぎりでは、山林である妙見山一帯に貴重な地名が多数遺されており、これが中世大内時代の経緯を知る上で重要な意味をもっている。はやくからこのことに気付き、何度も現地に踏み入ったが、もとより精査は困難である。誤謬・脱漏もあろうが収録したものを簡単に紹介して置きたい。

妙見山周辺地名図 昭和35年聴取調査により作成 (第二図)

 地名の内、中宮は現存するが、中ノ坊、宝樹坊、赤井(閼伽井)谷の地名はかつての七坊跡を意味し、中でも閼伽井坊(別当)は、これを称する跡地も正確に伝承され、文化五年の『妙見社参詣圖』とも符合する。中宮から仁王門までの間には人工による平坦地が数ケ所現存し、中近世の七坊跡と伝えられている。だがいずれの社坊に比定すべきかは不明である。

妙見山平坦地(社坊跡)略図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 これらの旧跡は、明治末までは比較的よく面影を残していたようであるが、明治四十五年中宮公園造築及び大正八年同公園拡張により、仁王門前後の参道が拡張された。このため社坊跡地は場所によってはせばまり、公園の石材は主として若水の浴から採取したようだが、不足分は近くの社坊の礎石を組石に使用したという。あちこちに散在していた礎石は、この時までは確かに遺存し「ときに腰を下して休んでいた」という証言が多数あった。一方、現在の仁王門のところに在ったという塔の築石は、仁王門を入った右側の松のふもとに現在も健在である(上部写真左下)。『寺社由来』寛保元年十二月(一七四一)には、鷲頭寺現住祖海(註一)が
  「五重の塔跡と申候築石計有之
   坊中旧跡と申伝候所数多有之」
と上申したことと符合する。

降松神社 中宮公園偕楽碑 (昭和三十年項) 五重塔はこの付近に在ったという。


仁王門裏より撮影 (昭和四十年頃)
仁王門前後の参道は松の老木が並立し門を入った右側には写真のように石がころがっていた。
邪魔にはなるが、塔の礎石と伝えている。

 他に焼尾と称する地名がある。おそらく慶長十三年二月六日の妙見山の大火災は、このあたりまで類焼したのではなかろうか。十分想定できる地名である。
 (註一)鷲頭寺では寛保元年当時の住職は、中興二世一峯法印とされている。本人の墓石は存在しないが享保二年(一七一七)の一峯による棟札が存在し、又、吉原の鷲頭寺住職墓地には、弟子の秀峯阿闍梨の墓石(総高三尺四寸五分)が在る。
     元文六(一七四一)酉正月三
     阿闍黎秀峯不生位
     鷲頭寺一峯法印弟子
    の銘文があって、かかる事実を裏付けている。元文六年は寛保に改元の年である。