下宮を吉原の地へ移建する際古墳を破壊し、石垣はこれを利用したものであろうとの推測がある。海抜四〇m余りと地形は絶好の墳墓地であるが、いずれとも断定しがたい。
次に乏しい資料から、遷座後の若宮に関するものを挙げてみたい。『寺社由来』寛保元年(一七四一)十二月に
一、若宮二間半四間瓦葺
平生御輿納置来候
と記している。この頃上宮には本尊虚空蔵、中宮には中尊妙見尊木像、千手観音尊像金仏、千手観音木仏、琳聖太子木像、推古天皇像が安置されているが、なぜか若宮には平生は御輿のみが置かれていたようである。お旅所として使用されていたのであろうか。二間半四間瓦葺と記された右の社殿は、これより二十五年後の明和四年(一七六七)に再建されている。即ち『鷲頭山旧記』には
北辰妙見若宮社再建
明和四丁亥十一月吉日
大檀那大江姓従五位毛利大和守就馴公
権大僧都法印惠本
執権 奈古屋蔵人
目附 安田七兵衛
作事奉行 淺海甚兵衛
と記し、続いて燈籠堂を拝殿に向かって右前方に建立している。
若宮妙見社燈籠堂氏子中建立
安永元壬辰十二月十二日
権大僧都法印惠本代
前者の若宮社再建とは、元和年中の頃吉原へ移築(新築か)の堂宇を明和四年(一七六七)に至り、再建したものである。(註二)現在の若宮社をこの明和四年再建による遺構とし、中宮社殿を大永三年(一五二三)大内義興公によるもの、(『降松神社由緒書』、『修理趣意書』前田宮司)とする大胆な説もあるが、中宮社殿は明治八年の再建(再建とは柱材等をそのまま使用した建替であろうか)であり、又若宮社殿も右のように古いものではない。
降松神社 若宮社平面略図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
降松神社仁王門姿図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
若宮社拝殿・楼門・妙見堂姿図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
降松神社 若宮社拝殿天井木組
若宮に於けるその他の建造物について、楼門は文化五年(一八〇八)の『妙見社参詣図』に存在せず、嘉永七年(一八五四)の『周防國都濃郡妙見山之略圖』には楼門の中央部(翼廊は不在)のみ描かれていて、この間の事情を物語っている。社殿横の神輿倉は、更に降って明治三十一年の『山口県社寺名勝図録』(大阪大成館)にも存在しないのでおそらく、それ以降の建立であろう。降松神社に現存する建造物のうちでは、中宮仁王門(現・随身門)が最も古く『山口県の近世社寺建築調査書』(山口県教育委員会・一九七八)に次の如き記載がある。一部を引用しよう。
「中宮随身門(河村註・仁王門)は一五丁目にある本格的な三間一戸楼門である。社記に文化四年建立と伝え、また敷石にも同年の刻銘があり、様式上もこの頃と認められる。
下階は八角形礎石上に円形の石製礎盤を重ねて円柱を立て、腰貫、飛貫、頭貫(木鼻付)で固め、桁行には飛貫の位置に梁を低く入れて繋いでいるために、全体はがっしりとした力強さが感じられる。頭貫と梁との間の中備えは中間に蟇股、脇間に蓑束を入れ、それぞれ実肘木、挙鼻付きとし、梁両端に木鼻を付すなど装飾が多く、その彫物はかなり進んでいる。腰組は二手先組で、肘木の木口を鉄板製飾り金具で覆っていて珍しい。
上階は木柄を細くし、柱の立ちを低くおさえ、脇間を大きく逓減させ、頭貫から下は開放にするなど、下階と比べて軽快に扱っている。組物は出組の詰組で、軒は二軒繁垂木とし、隅木先に繰形をつけるなど禅宗様式の手法を用いている。
軸部の造作や彫物にやや進んだ点が認められるが、文化年間の建築として基準作である。」(河村註・上階には華頭窓があった)
さて明治に入り同三年九月七日、明治政府の指図により「妙見社号降松神社ト改号成」(『徳山藩史』)、上宮、中宮、若宮の仏像、仏器類はすべて鷲頭寺の観音堂に安置、黒神直敬が社頭取計となり、以後上宮、中宮、若宮はすべて「天御中主命」を祭神として現在に至っている。この頃明治十三年の若宮の建造物については『旧徳山藩神社明細帳』に
若宮 二間半
三間
拝殿 三間
四間半
樓門 二間
八間
釣屋 方三間
拝處 方九尺
地域 東西北六間
南北十三間半
と記されている。
降松神社 明治十二年九月 中宮釣屋・拝殿再建碑
中宮本社再建碑 「文久三年歳ヨリ十三年経テ明治八年成就」の刻銘あり
中宮仁王門 昭和三十三年頃
中宮拝殿姿図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
中宮本殿拝殿平面略図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
(註一)
別当閼加井坊(宮司坊)を鷲頭寺と改号したのは、永禄十二年(一五六九)上宮再建の棟札が初見である。これは鷲頭庄の地名に由来するとする説もあるが、毛利氏が鷲頭氏を意識してのことであろう。おそらく鷲頭一門の怨霊、菩提供養を念頭に入れてのことであろう。尚永禄四年(一五六一)の棟札には鷲頭妙見山・宮司坊としていて未だ鷲頭寺の名称は存在しないので改号は永禄四年から永禄十二年の間にされたと推測される。
(註二)
明和四年若宮社再建当時宮司であった中興四世法印惠本は、天明八年三月二十六日入寂、立派な墓石が吉原の歴代妙見社住職墓地に在る。