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(七) 臥牛の庭石と常夜燈

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 若宮拝殿に向かって右側前方に、わずかな庭園石組がある。かつては庭の背後に樹齢数百年に及ぶ巨大な松の老木があったが、戦後まもなくの頃枯死した。このためか所によっては、地盤が沈下し、地下に埋れた石もかなりあって、やや荒廃の傾向を示していた。昨年春許可を得て、土中に埋った石を引上げるなど簡単な整備を行い、新しく表面に杉苔の植栽を行っておいた。これらの作業により庭園石組は、往時の姿を回復したと見てよい。但し庭園内の二、三の植物は、後世の補植であるが、そのままとした。整備を機に神足宮司により「臥牛の庭」と名付けられた。

降松神社 若宮臥牛の庭・整備後


降松神社 若宮拝殿 (昭和六十三年撮影)

 さてこの庭は、地下の百姓が牛の息災と繁殖を願って、牛を象った石を思い思いに奉納し、わずかな景趣をそえて庭としたものである。
 谷間の平地を求めてたむろする一群の牛たち、威嚇する雄牛、これに従う従順な雌牛、いたずらに乳をもとめる仔牛の姿でもあろうか。
 次に作庭年代については、この付近(現在の神輿倉前方)に安永元年以来小規模ではあるが「燈籠堂」が建立されており、堂の存在は文化五年(一八〇八)の「絹本淡彩妙見参詣圖」更に降って「周防國都濃郡妙見山之略圖」嘉永七年(一八五四)に描かれて明らかである。かかる事情や若干の証言もあり、築造年代は江戸末期を上限とすべきであろう。
 このことについては前掲明治三十一年の『山口県社寺名勝図録』(大阪大成館銅版部・本誌十三章参照)に掲載される若宮社の項に庭石らしきものが描かれていないとの指摘があろう。最近再版により有名になったので、この『名勝図録』について少し述べると(一)若宮社は縦三cm横二cmに描かれていて置石を省略した可能性が強いこと(二)次に右の『図録』が余り正確でないことも指摘される。余談ついでに不正確なことを若宮社について一つだけ記せば妙見川(河内川・『名勝図録』は誤って御手洗川と記している)に向って右手前に中休息所として神輿台を描いているが前掲文化五年(一六〇八)の『妙見社参詣図』も降って嘉永七年(一八五四)の『妙見山之略図』もこれとは逆に左手前に休台を描いている。更に古老の証言、明治二十年の河内村分間図も向って左手前を示し、又同年の土地台帳も降松神社の所有地は向って左側のみである。明らかに『名勝図録』の誤記である。
 さて庭園の石材は持ち寄ったもので、数種にわたり、散置ともいえる配石や、具象的石組は技法優秀とは認めがたいが、民俗資料として我国では遺例唯一の貴重な庭である。
 当時の百姓が牛馬をいたわること格別なものがあった。氏神から守札をうけて駄屋に貼って加護を願い、土用には「沙婆羅」(さばら)と称して、海につれ出して水浴させ労をねぎらう行事も最近まで行われていた。
 旧河内村字小原には「牛杜様」と称する小祠がある。周囲一間半~二間の敷地に瓦製高一尺六寸、幅一尺五分程の小祠があって、現在も年一度の祀事が行われている。寛文十二年(一六七一)悪疫流行して防長両国で四九、〇〇〇頭の牛が斃死したとの記録がある。これらとの関係も推測されるが、当所がそのように古いものか否かは分からない。
 寛延二年(一七四九)『地下上申』の記録では、旧河内村三三三軒の農家が所有する牛馬は計一六九頭である。つまり約半数の農家は、牛馬を所有していないのである。牛をもたぬ小百姓は、鍬(くわ)で田起こしをするか、人力による犂(すき)を使用した。この人犂は、人が両手で持ってあとずさりしながら、引張って耕土するものである。牛を所有しない百姓が、どのように厳しいものであったか。裕福な百姓が次々と牛馬で耕作する姿を、その日の生活にも困る貧農が人犂を引きながら、どのような気持ちで眺めたことか。困苦欠乏に堪えながら、中宮の仁王門からはるか奥深い谷間の傾斜地までも、みごとに切り開かれた田地を思うとき、私どもの先祖の労苦にただ頭の下がる思いがする。明治初期までは、日本人は牛肉を食することはなかった。牛は百姓の宝だと言うのである。長い間耕作に駆使してきた牛が使えなくなると、死ぬまで飼ってその労苦にむくいたのである。
 若宮に於ける石造物の中では、参道に延宝七年(一六七九)下松市最古の石鳥居が在るが、近年笠木以外は破損し、後世の補作となってしまった。今回は余談ついでに石造物中楼門左前方(現在は横に移転)の石燈籠を紹介しておきたい。地上高一間四尺、基壇幅四尺五寸、降松神社燈籠中最大のものである。
  妙見社
  東浦町日参講中
  安永癸巳年九月吉辰日
の刻銘が在る。東浦町は当時妙見社へ日参講を組織していたのである。漁猟を業とする浦の人々の懺悔(ざんげ)ともいえる宗教感情によるものではなかろうか。漁村では畳の上で往生できる人はほんの一部だったとまでいう。安永の昔、彼等は結衆をもって神仏へ詣でたのである。海が荒れ時化に遭うのは、漁の怨霊によると考えられた古い時代のことである。

降松神社若宮 楼門前灯籠一基(左側)東浦町日参講中 (昭和四十年頃撮影)


若宮楼門 (昭和六十三年撮影)

 農村(牛)と漁村(魚)の違いはあるが、右の二例は貧しい時代に生きた庶民信仰の内容を知らせてくれる史料である。造立者は裕福な特定個人ではなく、費用、労力は信仰集団により、あるいは結衆によって、神仏への信仰を具現したのである。
 立派な天守閣や、武家経済の基礎を支えたのも、困苦にあえぐ百姓漁民なのである。彼等は臥牛の石組や常夜燈籠をもって神仏に接し、安堵を得たのである。一つの民俗史料として理解戴ければ幸である。
(平成元年十二月)


若宮境内配置図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』 (第三図)