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(一) 妙見山潮流と私見

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降松神社 中宮表参道 鳥居前の杉の老木二本


降松神社上宮 (昭和三十年頃)

 まず妙見信仰の源流と、草創期を中心に下松に於ける妙見山の経緯を一瞥し、あわせてこれらに関する若干の私見を述べておきたい。
 妙見は仏語であるが、古代北辰・北斗を尊んで祀る呪術的星信仰をもって、その原形とすべきであろう。中国に於ける星信仰の起源は、紀元前数世紀に遡ぼり、降って陰陽道等の習合により、一般には、半島を経由して、我国へ伝えられたものとされている。(註一)
 我国での星(北辰)信仰は遅れたものの、朝鮮半島との交流が頻繁となるにつれ、新しい文化はやがて渡来人により我国へも上陸する。このことについて『鷲頭山旧記』別当源嘉在判・天正三年(一五七五)(以下『旧記』と略)や『大内多々良氏譜牒』大内政弘在判・文明十八年(一四八六)(以下『譜牒』と略)は、大内氏の始祖を百済系帰化人とし、琳聖太子に仮托して、妙見山北辰信仰の起源を説いている。この降臨説は、現在の学問からすれば、思想幼稚な時代の創作神話であって、史実としての信憑性は、疑わしいが、下松は、熊本県八代市の球磨川口とともに、早期の北辰信仰伝播地に、相違はないと私は考えている。
 一つの例を挙げよう。宮ノ洲古墳(註二)の地は、周知のように、すこぶる海岸低地であって、被葬者は、背後に広大な農耕地を有していないにもかかわらず舶載鏡四面を所有するほどの勢力を有している。おそらく下松(宮ノ洲)が、半島との交流の拠点の一つに位置していたためであろう。被葬者は、農耕基盤よりも鉄素材を中心とした半島交易に勢力を有していたのではないか。墳墓の位置は海に極めて近く(当時は孤島か)交易支配を誇示したもののように思えてならない。(地図参照)新しい文化である北辰信仰も、比較的早くこのような交流地へ、上陸したと考えて余り唐突ではあるまい。古墳の存在したあたりを、現在も「宮ノ洲」と称している。いつ頃までこの地が海上交通の要所であったかは判然としないが、はるか降って康応元年(一三八九)の『鹿苑院西国下向記』には、厳島詣をすませた足利義満を下松まで迎えに来た大内義弘は、義満と落ちあい「下松といふ所へとく御入あるべきよし被迎出間、種々御儲をハ御船へ進上、其夜宮洲御所へ御看ありて」と記されているので少くともこの頃まで宮ノ洲は天然の良港として機能したものと思われる。右の「宮ノ洲御所」の所在地は、全く不明であるが狭い宮ノ洲から推定すれば、下恋ヶ浜か磯部氏旧宅付近ではなかったかと思うが根拠はない。

宮の洲(昭和三十年頃)


「下松市管内図」平成5年に加筆作成(5万分の1)


州鼻遠景(昭和四十年頃)

 さて文明十八年(一四八六)大内氏による『譜牒』作成の際も、下松の妙見信仰伝播地の一件は、周知の事実であって、防長両国を掌握し、京都を思わせる程の繁栄を示したものの、一門の守護神祭祀地を宗家の郷里とすることは、出来なかったのである。これらは、いずれも下松に於ける早期の妙見信仰の伝播・繁栄を物語るものであろう。
 次にいわゆる北辰信仰に於ける神名については、いろいろな立場から国常立尊・天御中主尊・太一上帝・北極紫微大帝・太上真君上帝・真武太一上帝・霊応天尊・妙見尊・太極元神・太一北辰等多数に及ぶが『旧記』は、北斗七曜石や妙見尊星王を、『譜牒』は妙見尊星王大菩薩を祀ったとしている。印度に於ける北辰天文学は、仏教との習合が極めて早く、我国へは、妙見菩薩を主尊として、百済より伝来したとする説と『譜牒』は符合するものであるが、桂木山山頂に星殿を創建したという推古五年(五九七)は、分かりやすく云えば古墳時代末期に相当し、星が天降った年月日や神名まで明らかなのは、縁起特有の創作でこれを権威づけようとするものかもしれない。おそらく初期北辰信仰は、陰陽道を中心とした半島伝来の所謂呪術士による異国的修法によると思われる。桂木山や高鹿垣等の狭隘な山頂に例えば灯明をあげ、呪文を唱え吉凶を占う等神名すら明確を欠く、原始的信仰形態ではなかったであろうか。ただ明らかなのは、早期に伝来した外来神ということである。『旧記』には北辰尊星も百済から持来した旨記されている。

桂木山・標高五四m
当初この山頂に北辰星を祀ったと伝える。この山裾の沿岸突出部に舶載鏡四面を有する宮洲古墳を築造したのは、被葬者が半島との交易権を誇示するためではなかったか。



キトラ古墳壁画(部分)・奈良県明日香村(朝日新聞)
七世紀末~八世紀初の古墳に北斗七星他が金箔で描かれ北璧には玄武がある。
北辰信仰を有する渡来人の墓であろう。

 「降松に星が降った」ことは単なる後世の伝説にすぎないのではなかろうか。即ち星信仰の移入を里人は、星が降ったと神話化して伝えたのである。のち固有神道や仏教等他宗の影響を受け、あるいは土着化の傾向を示し、やがて豪族の強大化とともに一門の尊宗を受ける時代に至って、豪族の守護神的性格を顕著にし、明確な一門の氏神として妙見菩薩を主尊とする形態へと転じたものと私は推考している。
 『旧記』や『譜牒』に記載する桂木山や高鹿垣の狭隘な山頂に祭祀地を求めて、短期間で移動した時代(註三)が、前者の源始的北辰修法の時代で、のち広い敷地や水源を求めての鷲頭山への定着は、(定着年代に疑問が残るが)恒久性を尊ぶ(法隆寺のように)仏教の影響と解してよいのではないであろうか。
 『旧記』や『譜牒』が、鷲頭山頂へ星殿を創建したと伝える推古天皇の十七年(六〇九)より二百年後の大同元年(八〇六)には、空海が真言密教を伝えている。後述するように、妙見一山がこの真言支配により、長期繁栄をもたらした事は、史料から考証して確実である。密教支配に至った第一の理由は、もとより共通する教義にあろうが他に、外来神たる北辰信仰と真言密教が、ともに山岳をこのみ、呪術的性格を有することにおいて、親近な一面を有していたこと。又妙見(北辰)信仰が、思想的面が強く、教団(本山)を有するに至らなかったことが挙げられる。このため、やがて強力な教団を有する真言統括へと変貌したものと思われる。
 又鷲頭庄の庄名の初見は『仁和寺諸堂記』に於ける記述である。(註四)ここには、鷲頭庄が、仁和寺(山号は大内山・古義真言宗御室派大本山)の塔頭蓮華寺の領地の可能性を述べている。
 即ち、「蓮華寺(レンゲジ)。號周防堂。鷲頭庄此堂領也。(中略)周防堂號者。若周防國司建立歟。將又鷲頭庄之故歟。可之。」としている。『仁和寺諸堂記』が鎌倉初期のものだけに、妙見山が真言支配(妙見山別当は仁和寺末)に至った要因として、検討する価値がありそうであるが後考をまつとしよう。
 ともかく一山の奉祀・運営は、真言による明確な修法勤行へと変じたのであるが、その時代は明らかでない。(註五)ただ現在鷲頭寺へ遺存する中世末、永禄四年(一五六一)永禄十二年(一五六九)の棟札は、一山の奉祀・運営に於いて、密教支配を証する貴重な初見史料である。真言(鷲頭寺)による一山統括は、各時代領主への守護的性格・土着化による他宗の影響を受けながらも、その後維新政府の神道国教化政策断行に至る数世紀の永きに亘り、一山の安定的繁栄をもたらしたのである。
  (註一)『下松地方史研究』第二十六輯 相本高義 妙見信仰の項を参照されたい。
  (註二)『下松地方史研究』第三十輯 橘正 宮ノ洲古墳に関する詳しい紹介がある。
  (註三)『八代市史』蓑田田鶴男著北辰信仰の伝来地として他に熊本県八代市球磨川口が伝えられるが、この地に置いても同様に伝播初期度々の遷座が明らかである。おそらく偶然ではあるまい。桂木山から高鹿垣・鷲頭山(妙見山)への短期間の移転は、鷲頭氏の勢力の伸張とするのが定説である。宝城興仁氏は「この宮殿の移転は鷲頭氏の勢力の伸張と考えられる。即ち鷲頭氏が奉ずる妙見社が奥地に前進していったことは鷲頭氏の政治力の範囲が奥地に侵透していったことを意味している」(『下松地方史研究』第十九輯)とされる。
  (註四)『下松市史』平成元年 一三六頁 下松市史編纂委員会
     但し鷲頭氏の初見は『玉葉』治承二年(一一七八)である。尚鷲頭は天正三年(一五七五)の『鷲頭山旧記』に鷲頭(ワシノツ)と記されている。但し一度書写されているのでワシツ・ワシノズ・ワシノウズ等当時人々がどのように唱えたかは判らない。
  (註五)県内で中世妙見信仰に関わる社寺は、鷲頭寺の他に宮の坊(大島町八代)、興隆寺(山口市氷上)、神護寺(大和町大野)、無動寺(柳井伊保庄)がある。興隆寺は天台宗であり他はすべて真言宗である。密教と妙見思想とは教義に於いて共通する一面を有している。