下松妙見山の場合、固有神道としての神社の存在が、はなはだ疑問である。端的に言えば上宮・中宮・下宮は、妙見山鷲頭寺の一堂宇である。三宮には、仏尊を祀り、主尊の妙見は、外来神(北辰・陰陽道)と仏教の習合(註一)によるものであって日本の固有神道と異なることは、既に述べた通りである。
私は『下松地方史研究』第三十一輯で、かかる妙見の本質と、歴史的実体に於いて、日本古来の伝統神を祀った記録が存在しないこと、更に永禄四年・永禄十二年の棟札(註二)から、中世末既に、神官僧侶の共同奉祀形態が存在していないことを理由に妙見社の神仏習合形態を疑問とした。中・近世降松妙見社は、仏尊を祀り一山は、真言僧により、奉祀・運営されたのである。又妙見山に於ける神職の職名(宮司)や鳥居の存在は、明確であるが、それらはいずれも星殿時代か後世土着過程における他宗の影響と解してよいのではないか。いかなる宗教と雖ども、千年に及ぶ歴史的経過の中で、他宗と無縁の発展はなく、これらをもって、神仏混淆の範疇とするには、慎重でなければならない。
妙見社歴代宮司墓(在・吉原) (昭和三十年頃)
明治初年の編纂である『藩史』以来平成元年の『下松市史』に至るまで、すべての著書が、かつての妙見社を神仏分離して、降松神社と改称した旨記しているが(本誌十一章参照)、かかる理解は適切でない。この説は、妙見山の実体を検討することなく、『徳山藩史』や『大令録』に記された明治政府の布告そのままの編纂を妙見史として踏襲するものである。表面は分離したとされるもののその実体は、維新政府による神道国教化政策遂行のため、鷲頭寺に対して上宮・中宮・若宮(下宮)三宮の明渡しを求め、この地(社)に新しく固有神道による神社を創建したものである。
他に一つの首題がある。それは、このような維新政府の政策を、当時村民がどのように理解し、又行動したかの問題である。即ち、いままでの著書に記されるように、村民信徒が、単なる社名の改称(号)と解したか、又は別の神をお迎えしたと解したかの問題である。
今まで軽視された感があるが、以下本論は、このことについて数項に分けて述べることとしたい。
(註一)『下松地方史研究』第三十六輯 二四頁 相本高義
(註二)妙見山は、大内氏時代には七坊を有した(大内弘世の創建)とされて来たがこれを証する史料はなく、永禄四年(一五六一)棟札には四坊・永禄十二年(一五六九)棟札には、七坊が記されているので七坊がそろったのは、おそらく大内氏滅亡後の永禄十二年頃即ち毛利時代に至ってからのようである。一旦大内時代に建立された七坊が永禄四年に至って四坊となり更に七坊に復活した可能性は、妙見山の時代的経緯からしても極めて小さいのではないか。
降松神社仁王門・正面(昭和三十年頃)
妙見社参詣図(市指定文化財・鷲頭寺所蔵・文化五年・一八〇八) 『下松市の文化財』より
妙見山・永禄十二年(一五六九)頃を想定して描いたものである。中央の建物が別当 『都濃郡河内村明治二十年地誌』