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(四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転

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 明治三年に政府の裁断により、上宮・中宮・若宮の仏尊を鷲頭寺観音堂に遷したが、更にその九年後(明治十二年)に鷲頭寺は、遷座した妙見尊とともに、豊井村下松町へ移転している。ここで下松町へ移転の経緯について、述べておきたい。

妙見社(鷲頭寺) (昭和四十年頃)


妙見山鷲頭寺移転地〇 (下松市管内図)

 平田派国学者を中心とする明治初年の廃仏運動は、悲喜明暗を社寺に投じたが、本藩に於ける民衆は、誠に穏便であったことが、早くから指摘されている。(註一)更に明治十年代に至っては、廃仏運動の盛んであった地方ですらひとまずその運動が、鎮静化した時期である。加えて鷲頭寺住職は、河内村の出身であって、旧地には、縁者知人も多く存している。然るにこの時期(明治十二年)に至って、村民の反対を押し切ってまで、なぜ他村へ移転したのであろうか。
 住職が妙見千年の旧地を去って、豊井村下松町へ移転を決意した理由は、明確ではないが、次の如き要因を挙げることができよう。
(一)本藩に於いて、廃仏運動がなかったとはいえ、神仏分離以来真言寺院に関する熾烈な話は、次々と鷲頭寺にも伝わったであろう。例えば、四千に及ぶ仁和寺の末寺のうち廃寺は三千に及んだとも伝え、近くでは、花岡八幡宮別当職が、神主職となり、火災に遭ったとはいえ、地蔵院ほどの古刹が、ついに再建を断念、廃寺に至ったことは、同宗であるだけに、住職の強く憂慮するところであった。
(二)既に藩主の守護を失い今後無檀の寺を運営するには、むしろ信徒即ち経済的支援者が密集し、往来のはげしい下松町の方が、将来にわたり寺の経営即ち妙見守護が容易との判断があったこと。
(三)既に上宮・中宮・若宮の奉祀・経営権を失った鷲頭寺としては、必ずしもこれらに、隣接する旧地にとどまる必要も、又その意味もなくなったこと。
(四)鷲頭寺の堂宇は、護摩堂をのぞき、いずれも古く、大修理の時期に至っていた。この折豊井村(下松町)からの移転の勧誘が極めて強力であったこと。
 以上の如き理由を推測せしめるが、所在地よりむしろ妙見守護を第一義とする住職と、因襲久しい妙見信仰と村の衰退を思う旧地住民感情との間には、相当の隔たりがあったことも事実であろう。

鷲頭寺所蔵 住職河村明範置文

 「妙見さまが下松町へ移転されるげな」噂は電光石火の如く走った。反対派は、ついに結衆一統をもって本山仁和寺に直訴するなど、河内村・豊井村の村民、本山を巻込んでの騒動に発展した。この間の事情については、鷲頭寺に若干の史料が残っており、又『妙見さま』(鷲頭寺杉原孝俊著)に一部掲載されているので、本山への移転反対の上申書を転載しよう。
    鷲頭寺移転之儀ニ付上申書
   今般本国都濃郡河内村鷲頭寺ヲ以テ同郡西豊井村下松町ニ移転致シ度旨ニ付即御本山之御副書ヲ得テ地方廳に出頭候趣ニ御座候得共、本ヨリ当寺ニ安置之妙見大菩薩者数百年来村内人民信仰者勿論近郷一般帰依之尊像ニテ諸人参詣モ数多御座候處右様移転ニ相成候テハ、人民之信力ヲ失スルノミナラス自然村内不繁栄之一端トモ相成候ハ必然御座候ニ付結衆ヲ始メ村方一統連署ヲ以テ右移転之儀双方熨儀ニ相成候迄御延引被成下度目今地方廳ニ歎願中ニ御座候
   右当寺移転ニ付テハ前以テ結衆ヲ始メ村内人民ニ示談可有之筈之處今住職河村明範一己之料簡ヲ以テ正福寺住職中村一現ナルモノト相謀リ檀断至極之取斗ニ御座候間村内之苦情不輙カラ結衆之僧侶モ傍歓ニ不堪候〓、何卒双方慰儀候迄御本山之副書モ一先御取消ニ相成候様当地方廳ニ御駈合被成下度此段結衆一統連署ヲ以テ歎願仕候也
    山口県下周防国都濃郡河内村鷲頭寺結衆
     明治十二年十月二十一日
    仁和寺
      執事御中
 右の上申書に対し、仁和寺は直ちに移転引伸ばしの書類を地方庁に提出している。即ち
    山口県周防国都濃郡河内村
            鷲頭寺
  右寺移転之儀ニ付先般副書致シ候処都合之次第モ有之候間追而否相定候迄御採用御延引被下度候也
   大本山
    明治十二年十月二十三日
     仁和寺住職 冷泉元誉 印
   山口県御廳
 明治十二年十二月三日には、仁和寺本山に対し、重ねて鷲頭寺結衆による移転反対の上申書を提出している。
 鷲頭寺の移転騒動については、いくつかの逸話が残されている。寺の移転作業が、開始されるや、村人の実力による抵抗がはげしく、途中まで移動された二基の宝篋印塔を夜中に松心寺裏山へ、石鳥居の一つは、泉処寺近くの川中へ投げ捨てたという。このように熾烈な妨害に遭い、やむなく資材は、夜になって切戸川の川中を運んだと伝えている。又移転推進派の方でも、よくある話だが、勧誘のわりには、浄財が乏しく、予定通りに作業が完成せず、約束が違う(註二)として、ついに住職が一旦妙見尊をもって、実家にかえったと伝えている。「何分一丁先を太鼓が進むでのお」よく聴いた話だが住職の抗議としては、かなり派手である。この折旧地村民からは「妙見さんがおかえた」として大歓迎を受けたという。かなりの歳月が経過していたため潤色された部分もあろうが、暴動に発展する等、紆余曲折があったことは事実である。勿論一般村民は傍観するのみで加担者は一部であろうが、かかる暴挙を許したこと、その目的が、廃仏ではなく、又残された逸話もすべてその逆であることに注意をされたい。

鷲頭寺移転の妨害に遭い、途中宝篋印塔二基が松心寺裏山に移された。 現在は松心寺境内に立派に再建されている。


周慶寺墓地より泉処寺を望む。石鳥居は現在泉処寺に健在である。 (昭和四十年頃)


鷲頭寺移転への妨害ははげしく、石鳥居は泉処寺付近で川へ投入されたと云う。現在は泉処寺に再建されている。

 しばらく後のことだが、下松町へ移転した鷲頭寺は、明治二十七年四月十一日火災に遭い本堂が焼失している。一日たつと旧地では、夜釣りに出た漁師が、沖で火の玉が前後して、それも二つ、妙見様(鷲頭寺)の方角に飛ぶのを沖の舟から確かに見たという噂がパッと広まった。妙見社に火の手が上ったのは、その後まもなくだったという。妙見様は、旧地へ還りたくて、ご自分で本堂を焼き払われたと口々に言い出す始末。
 これらは、素朴な妙見信仰と移転への腹癒であろうが、移転後十五年のちも、このような感情が旺盛であったことの証拠といえよう。
  (註一)『下松地方史研究』第十八輯 村上文健氏は当地方に於いて廃仏毀釈が存在しなかったことを指摘されている。又同誌第二十四輯に橘正氏の神仏判然令を紹介したものがある。
  (註二)明確ではないが、移転はすべての堂宇をそのまま町へ移築するのが、条件であったと考えられるが、例えば鐘楼門は、宝永三年(一七〇六)の再建で古いためか移築された痕跡がない。(現在の仁王門は、その後明治二十六年八月建築許可によるもの)住職が約束が違うとしたのは、このようなことではなかったであろうか。