さて明治政府の政策によって、降松神社と号し、上宮・中宮・若宮に新しく迎えた天之御中主命と旧来の妙見尊(社)が、本質的に異なることは、既に指摘したが、当時村民はどのように解したであろうか。即ち後世の著書にそろって記述されるように、単なる改称と思ったか、あるいは、新しく別の神(社)を迎えたと思ったかの問題である。このことは、維新に於ける郷土の妙見史を論ずる上で、見落としてはならぬ重要な問題である。百余年を経過した今日当時の村民感情を問うには、問題もあろうが、さいわいこれには、明確な判断を下す史料が遺されている。それは「妙見堂建立」に関する一件であって、妙見尊を街へ移転後直ちに旧地吉原へ再度妙見堂を設立したことである。即ちこのことは、降松神社三宮の社は、かつての妙見社とは、全く別の神社との村民の認識を意味するからである。
現 降松神社若宮周辺・鷲頭寺跡・妙見堂跡等所在地図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
妙見堂・妙見橋・宮司宅周辺 『山口県社寺名勝図録』(部分・大阪大成館 明治三十一年)
旧妙見堂跡(裏側より撮影) 中央の建物は旧本堂であり空地は本殿の跡地である。
次に妙見堂創建に関する資料を掲載しよう。(註一)
妙見堂建立ノ件ニ付御願
本村在来之妙見尊並ニ鷲頭寺共此度本郡西豊井村下松町江移転相成リ候就者従来信仰佛之儀ニ付信者中申談更ニ建立任度仍而建物圖面尚永続方法書共別紙之通リ御座候為何卆別格ノ御詮議ニテ御許可相成候度此段御願上候也
山口縣周防国都濃郡河内村
禅宗曹洞派
松心寺住職 松岡徹明
信徒総代
周防国都濃郡河内村
第二百九十二番地居住平民
清木伊兵衛
(以下六名略)
山口県令関口隆吉殿
明治十三年一月二十日
右戸長
弘中永一
本堂坪数廿三坪
拝所三坪
妙見堂永続方法書
一宅地弐畝ト地價二円六十四銭一厘本村信徒中より寄附
一金三百圓
右妙見堂永続之ため前書之通信者中ヨリ據出元金据置年々利金ヲ以堂宇修繕其他の費用ニ支辨仕候事
妙見堂行者惣代
藤田市助
外二名(略)
明治十三年一月二十日
しばらく、右の史料にそって述べよう。
鷲頭寺が、妙見尊とともに、移転したのは、前述のように明治十二年十二月十七日である。その約一ケ月後の明けて明治十三年一月二十日には、はやくも旧地吉原へ右のような妙見堂建立の願書が、永続方法書を添えて県令宛に提出されている。勿論日付から推して、鷲頭寺の移転決定とほぼ同時に旧地に妙見堂の創建を計画したことになる。
この願書は、同年二月十二日付で許可されたことが明らかである。即ち
書面妙見堂創建立儀差許候事
山口縣令 関口隆吉代理
山口縣書記官 進十六
明治十三年
二月十二日
その後都濃郡役所の『寺院台帳』(県文書館所蔵)には、妙見堂からの上申書の右上部に朱筆で、
十三年二月十二日妙見堂
建築許可 十四年十月落成
廿四年六月廿日其旨届出
と追筆されているから、明治十四年十月には堂宇が完成したことが明らかである。
妙見山鷲頭寺が、下松町へ移転して、およそ二年後には、小規模ながら旧地吉原へ再度妙見尊が、安置されたのである。この一件は、新政府の廃仏思想下にあって、妙見堂建立願に示された村民の妙見尊に対する判断と理解の正確さ、そして強靱ともいえる信仰態度を示す資料として特筆されよう。政府のご沙汰をもって、因襲を急変させることは、困難であった。
(註一)妙見堂創建に関する資料は、書写したものをかつて宝城興仁氏から拝見させて戴いたものである。厚くお礼を申し上げたい。
ただ当時既に建立願書の所有者が不明で、尋ねたが、ついに発見されなかった。ご存知の方は、ご教示願いたいものである。