その第一は、太政官による国家支配、大教宣布の詔等による国威宣布の国策が、極めて強力であり、新しく迎えた降松神社がその気運にのったこと。加えて、降松神社の新宮司が、原田氏(註一)であったこと。当家は、旧藩以来の神主で、妙見社の抱社すべてに奉祀されるほか、これまで親しく各家のさまざまな祈願を行ってこられ、村民が降松神社に早くなじむ要因となったことが挙げられる。
又一方で中市に移転した鷲頭寺は、千年に及ぶ妙見尊を奉祀しており、その後も俗に「妙見さま」と称され繁華街にあって、予想以上のにぎわいを見せた。旧地に創建の妙見堂と、移転した鷲頭寺(妙見尊)は、わずか二kmの距離である。明治に入り、幕藩下に於ける他村意識は、急速に薄れわずかな買物をするにも街に行くにも、河内村の人々は妙見さまへ参詣することを口実に出掛けるようになった。時代の流れというべきか、国策にそって、次第に盛大となる降松神社と、因襲久しい妙見尊を奉祀する妙見山鷲頭寺の間にあって、無往無檀の妙見堂は、世代交代とともに創建の気概は、急速に低下したのであろう。かつての妙見社が、里より一八丁の山奥にあって、千余年の永きにわたる妙見信仰の歴史を有したのと比較すれば、余りにも短いものであった。

降松神社 中宮・上宮 『山口県社寺名勝図録』(部分・大阪大成館・明治三十一年)

同上 若宮

降松神社 中宮本社 (右)拝殿 (左)本殿
(註一)但し降松神社の当初の社頭取計は、黒神直敬である。即ち『藩史』(河合裕)巻之五神仏社寺之部十四に「(前略)社頭引請之義追而御詮議相成迄黒神直敬江当分取計被仰付之、同(明治)四年辛未九月十日直敬取計被許之原田重庸金藤由纈両神主ニ被仰付之」と記されている。
したがって、『下松市史』(五五五頁)に掲載される『松村家文書』(明治三年)九月十二日付の口演は、黒神とのみ記されているが、これを黒神直臣の神社改正方としての任務によるものとする『下松市史』の見解は疑問である。右の『藩史』から父の黒神直敬が降松神社の社頭取計として六ケ村の庄屋・畔頭への挨拶を目的として清木孫太郎宅へご案内に及んだものであろう。而して口演には、「御社頭引受取計拙者之被仰付候付」とされているからである。
又右の『藩史』から翌年明治四年九月十日には、原田・金藤両神主に仰付けられたことが明らかである。
尚同『下松市史』の次頁(五五六頁)に記された清木孫太郎家は、現、清木幹丈氏の先々代で庄屋の家柄である。