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(七) おわりに

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 維新政府による王政復古は、復古神道を奉ずる平田派国学者を中心として、神武創業にもとづく、祭政一致の古制を再現することにあった。神祇官を再興し、全国の神官を行政下に治めたのもこのためである。明治元年には、別当・社僧に復飾を命じる神祇事務局達や神社から仏教的要素を取除く太政官布告、即ち神仏の分離更に明治三年には、大教宣布の詔を出して、神道の国教化政策を推進したことは周知の通りである。
 妙見社に関し『大令録』は、当時次の如く編輯している。一部を抄録しよう。
   一 妙見社 右降松神社ト
  右今般夫々改稱仕度段伺出候ニ付前書之通改号被仰付候間、此段相心得可申候事右之通御触達可被成候事
    (明治三年)庚午十二月十四日 大属
       郡用所
 このように政府は、所謂神仏分離による「改称号」として下知しており、その後明治十四年河合裕も『藩史』の編纂に於いて、既に述べたように、
  (前略)一同年九月七日妙見社号降松神社ト改号成
と記している。徳山藩の世臣として、寺社奉行の要職にあった河合裕は、降松妙見社の歴史上の実態を充分承知していたであろうが、これらの編纂は、政府の布告通達を記録にとどめることを任務としたものである。その後も妙見の実体を唱えることは、明治政府への批判とも受取られ遠慮は、当然のことであった。
 私が残念に思うのは、その結果これらの、当初の編輯が、時とともに正論として歩みはじめ、廃仏方針にそった政府の布告そのままが、妙見史として、現在に定着したことである。平成の今日に至るも、先の章に掲載したように近代学者がそろって妙見山神仏分離説・改号説を唱えることは事実誤認に基づくもので、甚だ遺憾と言う他はない。下松妙見山の特異な一面は、検討をされる機会を失い、ただ妙見堂を旧地に建立した村民のみが、その意味では、妙見さまの正しい理解者であったとも謂えよう。妙見史を誤ることは、しいては下松史を、後世に誤り伝えることになりはしないであろうか。
(平成七年十二月)