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(一) 調査に寄せて

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 古い時代妙見への道は、いずれも自然の地形にそった曲がりくねった道である。
 山越えして登る妙見道は、狭く山あり谷あり又急な坂道もあって、相当な労力を要するが、山岳信仰の故に、このような坂道を登ることを人々は、一つの修業として尊んだに相違ない。
 戦後地域開発の余波は、田を埋め、山をけずって道は立派に舗装され、その結果このような貴重な歴史の道は、次々と破壊されることとなった。
 妙見道も平坦部では、自動車道の開通により、一部が寸断され、又山間部では、逆に原野となって、通行不能となり、又一部は自然流失によって、表道の他はついぞその姿を残さないまでに破壊した。その結果、草むらにわずかに残る石の道標や鳥居(写真参照)によって、信仰の舞台となった往時を偲ぶのみである。
 このような悲しい現実に対して唯一私たちに出来ることは、妙見道を地図に記して保存することくらいである。(註一)世代交替とともに、やがて妙見道そのものが忘れ去られるであろう。記録保存の作業が可能なのは、私たちが最後の世代である。
 私が妙見社の存在する旧河内村明治中期の遺構地図作成(但し妙見道は五〇〇〇分の一)にかかったのは、昭和三十年頃からで、唯一の救いは、当時村に関する明治中期の証言が得られたことである。妙見道もその中の一つである。茂った藪を伐り払いながら険しい山坂をつれ歩いてくれた古老は、いずれもこの世を去ったが、私は最近に至って、『都濃郡河内村明治二十年地誌』としてひとまずこれを完成することが出来た。永い歳月を要しただけに感慨深いものがあるが、やがて後世郷土史研究のお役に立てば幸甚である。

本図は妙見道原図5,000分の1を「下松市市域図」平成5年に書写したものである。

 本論はこのようにして作成した地誌の中から、生野屋村・山田村・来巻村(大河内村)・三井村・浅江村・豊井村・末武村からの各妙見道(地図を参照)を紹介し、次にこれらに関する若干の意見を述べて小論としたものである。

妙見道表参道 六丁目付近


妙見道表参道 八丁目付近

  (註一)来巻郷土史同好会では、道標所在地に表示板を設置して保存されている。(写真参照)又同好会では信友明氏を中心に『来巻村萬覚之書』を編輯され村の記録保存に尽力されている。

来巻村妙見道道標


来巻村妙見道道標