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(二) 生野屋妙見道

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生野屋越妙見道 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


生野屋上越妙見道 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 生野屋教応寺前の往還道(註一)より、河内村宮ケ浴(通称舞堂)に至るまでの山越え道十九丁が、生野屋越の妙見道と称せられている。宮ケ浴からは、大河内の妙見橋を経て、一般の妙見表参道(現在は中宮道と称している)に入る。
 具体的には、教応寺前の旧往還道より生野屋の中河原・上河原の間を経て、山道に入り日光寺・原垣内を登り、河内村との村境の尾根を西に進んで、北山と尾根続きの通称木鳥(きどり)に至る。(註二)この地までが十丁、山頂には木の鳥居があり、これが地名(俗称)となったものだが、現在は鳥居の形跡をとどめない。生野屋の信徒により、戦前は何年おきかに取替えられていた。
 更に木鳥より宮ケ浴まで九丁、道は現在下松高校の在る西蓮寺まで莚岩の山林である。木鳥から舞堂までは、一丁置きに石の道標があったが、現在は、数基を残すのみである。一部は山路の決壊により、一部は高校造成の際取り除かれた。
 下松高校の地は、現在は西蓮寺と称する地名が遺存するのみであるが、中世真言寺院(西蓮寺)の跡と伝え、造成までは、広々とした畑地で、「寮の岡」と称していた。ここには、一枚で二反近い平坦な畑地があり、この地が、寺屋敷跡であろう。敷地から推して相当な寺院と推察される。当初はこの付近の畑地が、高校建設用地とされたのである。(註三)
 前述の舞堂は、『地下上申』寛延二年(一七四九)妙見社の項に
 一同社休殿弐間ニ六間 大河内村ニ有
  但かやぶき也、山ノ根ニ有之、妙見祭礼之時分舞殿なり
と収録されており、宮ケ浴の一部を現在も舞堂と称している。この舞堂には次の如き銘文の道標がある。
  妙見社道
  元治元年丑五月吉日
  一九丁 生野屋村 石津栄吉
             花崗岩
             地上 二尺三寸
             幅  七寸
             奥行 六寸五分

『地下上申絵図』生野屋村地下図 寛延二年(一七四九) 山口県文書館所蔵

 生野屋からの山越路としては、他に一つ同村砂子から、河内村の越路・常楽・念仏田・道祖神・越路口を経て大河内の妙見橋に至る道が利用されていた。この道は、越路道・生野屋越の道と称されるのみで、道標もなく又妙見道と称することもなかったようだが、河内村から生野屋村への主要な山越え路で、山の尾根が、村境であった。
 越路の入口に、道祖神という地名が今もある。道祖神は、他村からの、悪霊を防ぐために祀った民間神で、山道に沿った盛土上にかつては、馬形の藁細工を手向けたり、盛土上に小石を投入れたりしていた。このように「道祖神」や「越路」は、民間信仰をもともない、郷土史の上では、貴重な地名である。最近「恋路トンネル」「恋路バイパス」「恋路大橋」等「恋」の字をあて、花柳街を思わせる地名となったが、これは低俗な付会にすぎない。土地は、それぞれに固有の歴史を有しており、地名はこれを証する貴重な索引であり民俗遺産である。このような名称を残念に思うのは、私のみであろうか。越路や道祖神の地名には、焼けつくような暑い日も、極寒の日もわらじ一つで山越えした名もなき人々の足跡が残っている。大道をベンツで走る人々には、先祖のご苦労も道祖神を祀る気持も分からないであろうが、私どもの郷土史研究にはこのような先祖の心を伝える義務がある。地名を残すことに一銭の経費も不要である。地名を単なる所在地表示とのみ解したとすれば、それは大きい誤りと云わねばならない。
 余分な感傷はこれまでとしよう。宮ケ浴(舞堂)から、大河内の妙見橋を渡ると左側に若宮と明治十二年までは、別当鷲頭寺があって妙見橋からこの付近までを馬場と称していた。この間は、道幅二間余を有し、河内村では、久保市往還道に比肩する広い表参道である。若宮への参道をすぎると道は急に狭くなり、手水川を過ぎると登り坂に向かう。この先からは、山道である。若宮から中宮まで十八丁、途中に二ケ所の景勝地がある。コバルトの海と下松一帯の眺望は絶佳である。赤坂(旧下宮跡地)付近から道幅は再び二間余りとなり、仁王門をすぎると中世この付近には社坊が点在し、明治四十五年の中宮公園築造には、亀池上の岩石と社坊の礎石が一部利用されたのだという。右に述べた妙見橋から中宮までの参詣道が、妙見道の最も主要な表参道である。明治三年妙見社が降松神社となってからは、妙見道は次第に中宮道と称されるようになり、(但し妙見橋はそのまま)現在では、この表道が唯一の参道である。

現在も妙見橋の名称がのこっている。(欄干標柱)

  (註一)山陽道については、山口県教育委員会による歴史の道調査報告書(昭和五十八年三月)がある。下松市域の往還道(勝間峠より坂川まで)は橘正氏の調査報告である。参照されたい。
  (註二)相本高義先生のお話では、藤光の旧道二六一番地の北に戦時中まで妙見道の道標が一基在り、更に大阪酸素の西側一、二六三番地付近の旧道にも一基存在していた由。現在は不在のため道標石の調査は不可能であるが、この道は木鳥で生野屋越妙見道と合流し、宮ケ浴に至るものと伝えられる。この証言により、少なくとも近世には、末武方面からの妙見道が存在したことが明らかである。

末武村妙見道 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

  (註三)下松高校の校地選定の経緯については、『下松地方史研究』第三十六輯松村亮一氏の研究を参照されたい。