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(四) 大河内村・来巻村妙見道

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熊毛大河内・来巻妙見道 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 来巻には、烏帽子ケ岳山頂及び丘陵をなす妙見山双方に妙見を勧請する等、古くからこの地方に妙見信仰の旺盛であったことを知りうる。『地下上申』寛保元年(一七四一)にも、来巻村の項に烏帽子ケ岳として
  但高キ山ニて烏帽ニにたる故か烏帽ケ岳と申候尤先年河内村之明見社くわんせう仕候得共、何此ニくわんせう仕候哉由緒無御座候、尤少之石堂元禄十六年ニ立申候
と記し更に
  妙見壱ケ所妙見山ニあり
として烏帽子ケ岳・妙見山の二ケ所に妙見の祀られたことを記している。烏帽子ケ岳の石堂は、その後再建されたものであるが銘文は旧記通りに再刻され
  元禄十六癸未八月建立
  庄屋木村藤左エ門信成
  畔頭宮田傳左エ門
    高畑忠蔵
と陰刻されて『地下上申』と符合する。

嶽妙見社・標高四〇二m 石祠(但し安政六年再建)

 さて来巻方面からの妙見道は、更に遠く隣りの大河内村の今宮付近から発して竹ノ内・岡垣内・流田・柿の内・楚里・高水越・鳴小田・大壺・中河内と続いている。来巻村に入ると道は、家国・横道・大切を通り大切山中には、花崗岩の道標が在る。即ち
  妙見社道
   戊辰ノ年
        花崗岩
        地上 壱尺五寸
        幅  四寸五分
        奥行 四寸二分
 大切を抜けると、横田・東大蔵(ひがしおうぞう)に至る。ここには、二ケ所に道標があり、石橋横の道標は、
  妙見社道
   宮田傳左エ門
        花崗岩
        地上 一尺四寸
        幅  五寸五分
        奥行 三寸五分
 と判読される。年代は記されていないが宮田傳左エ門は、右に記した獄妙見社元禄十六年の石祠銘文に畔頭としてその名が記されているのでこの頃の造立であろうか。道は更に西大蔵・千人塚横の山路を経て、角源・中ノ迫・勝負ケ迫を下り河内村の笠松に至る。大蔵の千人塚は、現在も実在しているがおそらく毛利元就の鷲頭庄攻略の際のものと私は推考している(註一)弘治元年(一五五五)春厳島に於いて陶氏を滅ぼした元就は、玖珂郡を支配下に収め、更に兵を進めて、都濃郡に進入したが、最大の拠点は、沼城であった。元就は、はじめ隆景に命じて弘治二年(一五五六)四月にこれを攻めたが、要塞は容易に陥ちず、次に隆元が元就の命を受けて、参戦することとなりその途次下松市域内での攻防が史料から明らかである。即ち弘治二年四月十八日鷲頭庄で、翌日十九日には下松に於いて、更に妙見山に於いても同日熾烈な戦いがあったことが『萩藩閥閲録』に収録されている。この妙見山の戦いを来巻大蔵(おうぞう)付近としここにある千人塚をその際の遺体埋葬地と見てよいのではないであろうか。(註二)
 さて来巻村と河内村との村境付近にも道標が在ったが、(註三)現在は存在しない。笠松を経て、成川の妙見橋を渡ると通称ヘイバタの浴でここからは、山田村妙見道と同じである。
  (註一)『下松地方史研究』第三十輯 拙稿
  (註二)同上       第三十輯 拙稿
  (註三)来巻郷土史同好会宮田芳人氏のご指導による