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(六) 浅江村妙見道

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 米川(現在の島田川)を渡り、米川橋より一丁程西に向かい、東光山西福寺門前に至る。寺の東端に次の道標が在る。(現在は光市文化センターに所蔵)
  妙見社エ五十三丁
  当米川橋一丁
        花崗岩
        下部欠失・遺存部 一尺六寸五分
        幅  四寸四分
        奥行 三寸六分

妙見社エ五十三丁 当米川橋(島田川の橋)一丁西福寺門前の道標である。 (光市文化センター所蔵)

 西福寺門前より浅江神社を経て、高松山清鏡寺横に入り、同寺の裏をほぼ北に向かい、長音寺山の東に至る。これより栄下・貴布称を経て弥ケ迫の西平原からは、山越えである。途中流田へ越す道と弥ケ迫に至る道の分岐点には「妙見社へ三十九丁」横面に「橋へ二十五丁金近氏」の石道標がある。北に向かっての険しい坂道をしばらく登ると、通称七曲に至りこれを過ぎると、三井村・浅江村二ケ村眺望の地である。ここには、次の石鳥居がある。
  明治十年丁丑三月
        花崗岩
        笠木地上一間二尺六寸
        柱内幅 五尺九寸四分
 石鳥居は、古いものではなく、合祀により余分となった鳥居を浅江村信徒により移転再建したものであると言う。献主銘を故意に消したように見えるが、如何なる経緯あってのことか。

浅江村妙見道 山中の鳥居

 黒岩山を経て、綾ケ谷より尾根づたいに、左折すると高鹿垣(茶臼山)に至るが、妙見道は北西の方向である。これより先は、三井村妙見道と同一である。
 このように浅江からの参詣者が、すべて山路を登ったのは、岬状の海岸道を歩む場合強風による時化(しけ)もあって険しい乍らも、当時は山越の方がはるかに安全であったと言う。