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(七) 東豊井寺迫妙見道

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東豊井寺迫妙見道 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 東豊井方面からの妙見道は、ほぼ寺迫川にそって寺迫・松ケ坪・清水本・鞍掛を経て、なだらかな山林に入る。この付近からは、河内村の旗岡である。

東豊井寺迫妙見道松ヶ坪 峠を越えると河内村である。

 南北朝時代陶氏を富田保に配置して前進基地としていた大内弘世は、ついに正平七年(一三五二)二月鷲頭の庄に激戦を展開している。この結果、秋八月三日の合戦記録を最後に、鷲頭氏は敗戦に至ったようであるが、戦いは長期に及び、右の旗岡や千人塚の地名はいずれも当時の激戦を証する貴重な地名である。明確な資料を欠くが、旗岡や千人塚付近を古戦場の一つに想定して誤りはないであろう。(註一)
 さてこの旗岡・大久保に沿って、急な坂道を下ると一ノ坂に至る。一の坂を右折して、吉原谷に架かる神ケ平の妙見橋を渡り、焼尾・宝樹坊を経て中宮の仁王門に至る。焼尾から仁王門までは、すべて山林で急な登り坂である。神ケ平は、妙見山の神域を意味する地名であろう。吉原谷に架かる妙見橋は、花崗岩で幅四尺・長さ一間半、寺迫兼田家の奉納である。横に兼田幾治郎の刻銘があったが、現在は砂防ダム建設により実在しない。

寺迫妙見道の一部はダムとなって寸断された。寺迫兼田家造立の妙見橋もその姿をとどめない。

 焼尾は、慶長十三年(一六〇八)二月六日の妙見山大火災の際この付近まで類焼したことに由来する地名であろう。(註二)宝樹坊は、中世社坊の地名遺存と思われる。いずれも貴重な地名である。
 (註一)『下松地方史研究』第二十九輯 拙稿
 (註二)『下松地方史研究』第二十六輯 拙稿