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(八) 豪族と信仰風土

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 古くから参拝の舞台となった妙見道は、郷土の妙見信仰を理解する上で、重要な意味を有すると考えられる。
 後世の記述であって、信憑性は疑わしいが、妙見の祭祀地は、桂木山・高鹿垣・鷲頭山といずれも山頂に星殿を、建立している。右に述べたような多数の妙見道が、存在したのは、一つに妙見の社殿が山岳を好んで建立されたためで、もし山陽道等の往還道に沿っておれば、このように多数の道は、存在しなかったであろう。
 妙見道の正確な初見史料は、明らかでないが、『鷲頭山旧記』天正三年(一五七五)や『大内氏譜諜』文明十八年(一四八六)に記される鷲頭山への遷宮即ち推古天皇の十七年(六〇九)をもって妙見道の成立とすることも出来る。だがこれらの史料は、いずれも千年近くも後に記されたもので再検討の必要が在りそうである。
 然るに中世に至って大内氏が『大内氏譜諜』(同上)や『壁書』応仁元年(一四六七)に示す如く、妙見山は大内氏一門の守護神を祀る霊地であり、これをもって同族結合の要とし、同族の和平を維持した(註一)ことは、史料から考証して確実であるから、権力者大内氏によって造られた妙見固有の道ではないまでも、この頃には右に述べた山越えによる隣村からの参詣道が、ほぼ定着していたと見て大きい誤りはないであろう。
 次にこれに付随して、妙見を守護神とする鷲頭氏の庄域又隣村豪族との関係を一瞥する必要がある。
 鷲頭庄の成立時期は、不明であるが、庄名の初見は、鎌倉初期の『仁和寺諸堂記』とされている。庄域については『大内氏壁書』応仁元年(一四六七)に「鷲頭庄妙見山」と記される他、陶弘政が、代官安永四郎左衛門尉に宛てた貞和三年(一三四七)三月二十一日付の『金藤家文書』に、「周防国鷲頭庄山田郷中村」とあり、又同書中弘政が、生野屋与一権守に宛てた貞和三年(一三四七)四月二十八日付文書には「鷲頭庄末武郷三分ノ一内上出作」とある。更に同人に宛てた正平十六年(一三六一)十一月十三日付文書(同上)に「鷲頭庄生野郷松尾八幡宮」と記されるから、この頃妙見に奉祀する鷲頭氏の庄域は、豊井・河内を中心として山田・末武・生野屋に及んだことが明らかである。
 また後世の史料であるが『風土注進案』天保十三年(一八四一)末武上村の項に
  当村名之儀往古鷲頭庄と申、徳山御領豊井村河内村一円郷と申伝、大内御時代北辰妙見社御建立之節地名に依て鷲頭寺と申社坊被立候由、則河内村妙見山之梺(フモト)ニ有之候、其後末武何某と申御方当所城山ニ居城有之候故末武村と号来候由古老之申伝ニ御座候事
として時代の降った近世末に於いても、鷲頭庄と末武郷が一円郷の歴史的認識のあることを記している。
 次に妙見所の地名やお社、又有力な妙見道や降臨伝説の存在する光市域(浅江村・光井村・三井村)と中世豪族の関係はどうであろうか。
 当時光市域には、内藤・安富・光井・陶などの諸豪族があったことが知られているが、そのうち内藤氏は、下松の末武に居住したらしく、以後この地を拠点として、一門は勝間・浅江方面にも地頭領主として勢力を有していたことが明らかである。遺存する資料を挙げよう。
 『萩藩閥閲録』所収、貞和六年(一三五〇)の内藤徳益丸盛世の言上状によると、内藤氏は所領として、尾張国浅井郷などのほか周防国周防本郡東方(のちの小周防)・同勝間村等の安堵を挙げている。
 その二年後の正平七年観応三年(一三五二)二月十九日には、大内弘世が鷲頭庄白坂山に押寄せて、下松の領主鷲頭長弘並びに内藤藤時と戦い、閏二月十九日転じて大内軍は、現在の光市浅江、当時の新屋河内真尾に戦闘している。所謂南北朝の戦いである。更に三月二十七日、二十八日にも同地に再度激突があった。直ちに内藤藤時がこれを赴援し、十九日の戦いでは、藤時は実弟の新三郎盛清を戦死させている。(註二)
 この一件からも、新屋河内・真尾(註三)が鷲頭庄の東方背後にあって、ときに極めて親密な一円郷をなせる豪族共同体であったものと推考される。
 右の南北朝の戦いに於いて、鷲頭方に属した内藤藤時は亡びたが、盛世・盛貞の系統は、のち大内氏の被官として、その所領も熊毛郡小周防村・同勝間村の他各地に散在し、代々長門国守護代に任ぜられ、陶・杉の両氏とともに大内家三家老と称せられている。
 鷲頭氏も同様である。長弘は、南北朝の戦いに於いて亡びたものの、一族の内例えば、長弘より五代あとにあたる鷲頭弘賢は、戦いから百二十六年後妙見山下宮修造に関与したことが、『正任記』文明十年(一四七八)十月三日の條に明らかである。又大内政弘が、『壁書』(同上)に於いて、周防鷲頭庄妙見山に、士・庶の狩猟を禁じたのは、応仁元年(一四六七)四月二日つまり南北朝の戦いから、百十五年後のことであって一国を統一後も重ねて妙見山の守護にあたっている。
 以上乏しい資料ではあるが、地図に示した妙見道の放射線状下の庄域は、いずれも大内氏・鷲頭氏・内藤氏と深い関係を有し、このことが共同体としての氏神信仰を促し、妙見への道は、少なくともこの頃には、完全に定着していたと言えよう。
 下松に隣接する光市の地名は、近年の光海軍工廠に由来するが、ここに光の名称は言うまでもなく、光井村の「光」が根源である。
 光井保の地名は極めて古く宝治元年(一二四七)即ち鎌倉時代既に存在しており(『山口県文化史年表』)のち慶長五年(一六〇〇)の検地帳や地下上申(元文三年・一七三八)にも認められる。
 ところで『防長風土注進案』では光井の地名起源について
  「当村往古は明光ノ里と唱へたるよし、俚伝日、昔北辰妙見天夫降り玉ひたるを則産土神と崇め奉りしに、其頃村中人家無数、遠近に住居して渓水の流れを汲呑といへども、暑気の折などは水乏しき故に里人祈願をこめ神明の加護を祈りしに不思儀の神託有て三の所に井を掘水の湧事夥しく、夫より村の名を三ツ井と改む、其後天満宮御鎮座之節、彼の井より夜な夜な光りを発しければ又光井村と改」(以下略)
と記している。はるか後世の所収ではあるが、江戸時代このような北辰降臨説が光市域にも多く存在し、又湧水の伝承は、妙見山の若水、下松の豊井にもあって興味をそそるものがある。つまり光井村の光は星の光であり、井は同様湧水の井である。「明光の里」も星の降臨にちなむ地名である。即ち明光(みょうこう)とは、妙光・妙見に通じ共に仏語であることに注目されたい。「めいこう」と云わず現在も村人が「みょうこう」と称していることは、星信仰が下松と同様仏教との習合形態を意味するからである。素朴な民間伝承は、決して軽視してはならない。

中宮より若水の浴(亀池)に至る参道


天満宮(光井)

 光井村八海の妙見神社は推古天皇の時代に創建されたとも伝え光井天満宮の創建までは、光井氏の氏神として奉祀されていたという。このように降臨伝説が下松・光方面に多く存在するのは、中世在所豪族と妙見の深い関係を示すものである。時代が降るが、浅江・三井からの妙見道のうち下松の妙見山中宮より白亀池に至る石段(二十四段)や同所の石鳥居(天保十一年造立)は光井村野原の住人による寄進である。

光井村八海妙見神社 光井村八海は明光の里と云い推古期創建の妙見神社は豪族光井氏の氏神であったと伝える。


妙見道の内降松妙見社の亀池に至る石段と鳥居は野原村住人の奉納である。


降松神社 亀池 玄武は北方・水の守護神である。
姿を変えながら亀池はその遺構を現在に伝えている。敷石や灯籠は後世のものである。(昭和三十年頃)

 『ふるさとの道』昭和六十一年三月県民会議編も妙見信仰にふれ次の如く記している。
  「浅江相生町西福寺の角に「これより米川橋まで一丁、妙見社まで三十六丁」(註四)と刻んだ石の道標がある。いつ頃の建立か分からぬが、藩政時代から下松の妙見社に参拝する人は、ここから浅江台・栄下・貴布弥にぬけて、下松妙見宮に参詣した。車の通行は不可能で人が歩けるほどの細道ではあるが重要な信仰の道で、当時の人は「妙見道」と呼んだ。元来、藩政時代末期まで、浅江・三井地区は都濃宰判下にあり、それ以前も鷲頭支配下内藤一族の領地であったところから、宗教風土も下松同様の傾向を辿っていたであろうことは当然と肯かれる。
  光地域の妙見信仰は、遠い昔から、近代に続いたのである。」
 と記されていて中世豪族にその起因を求め、又信仰が長期に及んだとしているが、この見解に誤りのないものと考えている。この宗教風土こそが地図に示したような多数の妙見道と後世隣村に多くの妙見を祀る結果を生じたのである。
 (註一)『下松地方史研究』第三十一輯 拙稿
 (註二)『下松地方史研究』第二十九輯 拙稿
 (註三)『防長地名淵鑑』御薗生翁甫著
     『加茂大明神宮頭番文書』延徳二年
      (一四九一)九月十一日付の末文に
        新屋河内役人
           大野但馬守(判)
        浅江役人
           九朗右衛門(判)
     と記されてこの頃二郷に分かれているが慶長五年(一六〇〇)同十五年の検地帳には合石で三井村新屋河内とあり、降って寛永二年(一六二五)の検地帳からは三井村の付名とし、元禄十二年の検地帳では浅江村の小字地となっている。
 (註四)道標には五十三丁と刻まれている。三十六丁は誤りである。