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(九) 妙見信仰圏と明光の里

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 下松周辺に於ける初期妙見信仰の中心が、高鹿垣(茶臼山)や鷲頭山に存在していたことは、『大内氏譜牒』や『壁書』等の史料から明らかである。現在下松では市が「星ふる街」を自治体標語にしていることも手伝って、妙見信仰の地を即ち下松市域に重ねているがそれは誤りである。妙見信仰の中心が、鷲頭山にあったことは、疑う余地がないが、その信仰圏を想定すれば、現在の下松市域ではなくむしろそれより東方即ち現在の光市域に於いて顕著であったと思われる。既に述べたように浅江村上ケ原に妙見社があり、他に光井村八海と三井村妙見所には、妙見社とともに極めて古い妙見(降臨)由来が伝えられている。又現在妙見と云う地名が下松には存在しないが、光井村・三井村・浅江村の三ケ所には今も健在である。このことはさかのぼって当地の妙見が、相応の繁栄をしていたことの証拠である。

浅江村上ヶ原妙見神社


三井村妙見所 (右)妙見社石段 (左)同妙見之滝


大河内橋より鷲頭妙見山を望む 里より十八丁 標高二五三mの山頂に社がある。

 「明光の里」と呼ばれた光井保は、勿論国衙領と推測されるが室町時代には、東方を光井氏、西方を下松と由縁の深い内藤氏が領していた。
 光井天満宮再造立の棟札に見える安富氏は鎌倉幕府の御家人であったが、宝治元年(一二四七)光井保に地頭として下向している。のち一門の相続において所領の分割があり、光井保の相続者が在所名により、光井氏を名乗ったのであろう。もとより防長両国は大内氏の支配下にあり、この付近で勢力を伸ばし得たのは、大内氏に隷属し重臣陶・内藤に従い諸所に転戦し戦功があった結果であろう。又史料を欠くが、たえず大内氏の守護神である妙見守護に組したことも当然である。平成の今日も光井保の一部である八海一円を村人は「明光の里」と呼び妙見の地名も実在していることは右に述べた通りである。

光井の井戸 光井天満宮前


八海の井 八海観音堂前方に在る。


宝篋印塔・五輪塔 光井八海観音堂境内 おそらく安富・光井一族の墓石であろう。

 最近下松市は「星降る街」光市は「虹の松原」を標語にしているが、右のような史料から内藤・光井・陶等の所謂豪族時代を推考すれば、鷲頭山妙見社を中心にして信仰圏は下松市域よりむしろ東方、即ち「明光の里」と呼ばれた光井村八海や、三井村妙見所方面に求めるべきであろう。既に古き時代妙見を桂木山から高鹿垣・鷲頭山へと遷しながら市域の中心を占める白坂山(北山)一帯に祀らなかったのは信仰の中心に星殿を設けようとする気持からであろうか。いずれにせよ古代・中世の妙見研究に於いては、はるか後世の光市・下松市という行政区画や自治体標語にとらわれてはならない。光市や下松市の行政区画は中世妙見信仰とは無縁なのである。又前述のように各所の妙見所在地に、ことごとく降臨伝説が存在することは、信仰の発展過程に於いてかかる地域神話が、発生することの必然性を意味するものと解されよう。下松に於ける降臨伝説も例外ではなく妙見信仰の発展につれて自然発生したものと私は考えている。