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(十) おわりに

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 かつて山陽道等の官道は、官使の往来を基本使命とした。即ち政治権力支配を容易にするための手段であり、民衆にとっては、貢納・徴発のための京への道であった。右に述べた信仰の道は、特定の権力者への貢納のためではないが、当時豪族は、家系の伝統的権威により、祭神を位置づけていたことも事実である。先の章で述べたようにこの点は、大内氏も例外ではなく、守護神たる妙見をもって、同族結合と地方統括の実を目指したものと考えてよい。放射線状に示された参拝道と豪族の勢力(信仰)圏がほぼ符合するのは、偶然ではなさそうである。
 度々述べるように星信仰は、天体の原理を地上の政治権力に付会せしめたものである。権力者は天子の貴さを天帝に比し、全天の星がまわりを廻るその姿を理想とした。その後中世密教による習合・支配があり、ついで民間信仰にまで普及するに及び、延命・招福・豊穣を願う一般信仰に変貌している。又社寺の中には、光市域の妙見社のように密教支配の枠から外れたものも多いが、千数百年の間妙見社が共鳴を受けたことは事実であり、あるいはこれを受け入れる土壌が存在したからであろう。
 さて遺存する石の道標は、いずれも江戸時代右のように変貌し民間信仰となり、有名社寺への物見遊山が流行した時代のものであるが、しかしこれをもって妙見道の起源とすべきではない。その発祥は、やはり中世豪族の勢力と信仰に起因するようである。即ち領主大内氏による妙見信仰の威圧的高揚が、この地に放射線状の妙見道をつくったのではないであろうか。ここに諸豪族による村落の宗教風土が定着し、多くの妙見を祀り(地図参照)降臨伝説等種々の神話を生む結果となり、のち、豪族滅亡後も、信仰と娯楽の一体化現象により、妙見道は近世・近代へと受け継がれたのである。
(平成八年十二月)


大河内村より妙見道道標


浅江村妙見道道標 光市文化センター所蔵


生野屋妙見道十四丁


生野屋妙見道道標十三丁


生野屋村妙見道道標十九丁


若水(亀池)道標