ビューア該当ページ

(三) 内藤・末武両氏の城郭と居館

397 ~ 398 / 541ページ
 中世豪族は、普段は居館と称して、ここに生活の本拠を置くが、一旦有事の際には、別に険阻な山をもとめ、これにわずかな人工を加えて城郭(山城)となすのが常であった。
 さて右の『内藤藤時軍忠状』に於ける居館・城郭は、現在いずれの地に比定されるべきであろうか。『軍忠状』には
 「右自最前為御方、構城郭所領末武庄(以下略)」
と記しているから、領地末武庄に内藤氏が城郭を構えていたことは、確実であるが、現存する末武城山(第1図・第2図参照)が、内藤・末武いずれの築(在)城かは明らかでない。

末武城山遠景


白坂山・城山周辺 (中国新聞・一九九五)


南北朝期に於ける下松付近戦闘地比定図(下松市管内図に加筆作成)(第1図)

 『地下上申』寛保元年(一七四一)には
  「末武城山   高塚村之内
  但往古末武何某と申人之居城ニて御座候由申伝へ候、彼山峯ニ壱町四方程平地之段之井跡も御座候、且又東ニ当テ馬乗馬場と相見へ候て往来有之候事」
としているから、この頃には、井戸跡・犬走も存在したのであろう。だが築城者は、この史料からは、末武氏を思わせるものの断定は困難であって、御薗生翁甫氏も『防長地名淵鑑』(昭和六年)で
  「末武城は、末武弘藤の築くところか、或は又内藤藤時か何れとも決定し難し」
と記している。

『地下上申』末武村地下図 山口県文書館所蔵(一七四一) 城山は写真左上部である。

 又居館についても同様である。同氏は『防長古城趾の研究』(昭和十一年)で
  「弘藤・末武村を食み、居地に因りて氏とした。末武中の字東河原に、堀、土井縄の小字地がある。豪族の居館に縁ある地名である。或いは末武氏の館趾ではあるまいか、参考すべきである」(註一)
と記しているが降って『徳山市史』(昭和三十一年)では
  「(前略)東の尾には古井の跡、断崖がある。城山の西部平地(末武中)に堀・土井縄の地名が遺っている。ここが内藤氏の館跡ではなかろうか」としている。
 又宝城興仁氏は『下松地方史研究』第十七輯で「住古末武何某と申人之居城ニて」とする『地下上申』の記載に賛成されている。
 この「末武何某」とする記載が単なる地名による附会か、伝承が正しいかは容易に断定しがたく、今のところ遺構・痕跡の発見をまつ他はない。
  (註一)字堀は末武バイパスの南方末武中一三八番地(堀春三宅)付近である。字土井は末武中一九〇番地周辺で、福円寺の東にあたり現在は岩徳線が縦断している。宝城興仁氏はこれに反し、末武氏の館を護国神社の西方殿垣内に比定されている。(『下松地方史研究』第十輯)この地は平田川に接し字末武上一五〇一番地風井啓二宅付近である。

右奥白坂山・左に城山を望む